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BE KOBE神戸の近現代史

神戸事件 (詳細)

事件発生

慶応4年1月11日(1868)、鳥羽伏見の戦いの結果、前将軍徳川慶喜が大坂を捨てて江戸に逃れ、兵庫奉行も江戸に撤収した翌日のこと。備前藩家老日置帯刀(ひき(へき)たてわき)は新政府の命を受けて西宮警備に向かうため、備前藩兵を率いて西国街道を東に向かっていた。

当時の西国街道は、外国人居留地を通過するため、外国人との接触の恐れがあった。そのため幕府は各村に命じて徳川道(当時は西国往還付替道とよばれていた)を設けた。しかし、日置隊は従来の西国街道を通過した。理由としては、大砲を引いていたことや、徳川道は未整備の山道で宿も無いことなどから西国街道を通過したと考えられている。

日置隊が三宮神社前を通行中、外国人数名が行列を横切ろうとしたため、藩兵が横切ってはいけないと身振りで示したが、隊列を横切った外国人に負傷させるという事件が起きた。その結果、神戸港に停泊していた軍艦から英・仏・米の守備隊が上陸し、銃撃戦となった。

家老の日置は兵を山手に退避させ大事にいたることを避けようとしたが、外国の守備隊は神戸および神戸港を占領した。そして、武器を持つものの通行を禁止し、港内に停泊中の蒸気船を差し押さえた。

各国公使との交渉

事件の翌日、伊藤博文(いとうひろぶみ)が長崎から神戸に来航した。深刻な事態を目の当たりにした伊藤は、外国事務掛を拝命、外交官として交渉団の一員に加わった。

1月15日、外国兵による神戸占領が続く中、参与兼外国事務取調掛東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)が運上所(税関)で外国公使達と会見をおこなった。東久世は、王政復古を諸外国に通告する国書を伝達するとともに、幕府が外国と結んだ条約を新政府も遵守することを誓約した。また、神戸港の返還を要望したが、各国公使は、「外国兵にて神戸を警護する理由は、備前藩の乱暴が言語に絶し、殊に各国公使に発砲するなどは文明国にはあってはならない。」との返答であった。公使たちは、今後決してこのようなことのないことを担保するよう迫った。東久世は薩長二藩に警護を命じた勅書を示し、今後決してこのようなことのないよう、新政府において引き受けることを告げた。

各国公使は、薩長両藩が兵庫警備を行うこと、今回の事件の善後策については、後日提出するのでそれを行うことを約束させた。東久世も、各国公使に対して、在留外国人も日本人に乱暴させないようにすることと、抑留していた蒸気船は即返却することを要求した。外国公使たちはそれを受け入れた。

事件の結末

1月16日、6か国公使連名による書類が届いた。その内容は、第一に新政府により各国公使に謝罪すること、第二に備前藩の発砲を命令した士官を各国公使付士官立会のもと、死罪にすべしとの要求であった。1月21日、朝廷は要求を承諾することを公使たちに報告した。さらに、備前藩に対して、日置帯刀を謹慎処分、発砲を命令した者を割腹のため兵庫に護送し、外国御用掛に差し出すように命じた。

2月7日、備前藩は発砲を命じた馬廻り藩士、滝善三郎を兵庫まで護送し、外国御用掛に差し出した。2月9日、外国事務局輔伊達宗城が兵庫に到着し、6か国公使に謝状を送り、同日夜兵庫永福寺において各国の代表者ならびに薩摩藩、長州藩、宇和島藩の家来立会のうえ、滝を割腹させた。

滝は割腹の前、神色自若とした様子で以下の通り述べたと伝えられる。「去る十一日神戸通行の節、夷人無法の所業におよびたれば、よんどころなく兵刃を加え発砲を号令したるは予なり。然るに、今般王政御復古更始御一新の折柄、宇内の公法をもって御處置遊ばされ割腹仰せつけられたり、ご檢證くださるべし」

滝は、謠曲を口にしつつ、悠々割腹したため、各国の立会人は大いに驚いたという。

その後

2月19日、備前藩主池田茂政(いけだもちまさ)は引責謹慎をしたが、朝廷はその儀に及ばずと沙汰を出した。3月15日、朝廷は家老日置帯刀の謹慎を解いた。滝の切腹した永福寺は兵庫区南仲町にあったが、戦時中の空襲により焼失。境内にあった滝善三郎の供養碑は、昭和44年(1969)、兵庫大仏で知られる天台宗能福寺に移設され、現在に至っている。利用されることの少なかった徳川道だったが、現在ではその一部がハイキングコースとしてハイカーたちに親しまれている。

コラム記事

コラム1

『神戸事件の複雑な事情』

神戸事件は、いくつかの偶然の重なりと、複雑な状況が重なり合うことで日本の外交史におけるキーポイントになった事件であり、その処置を誤ると、我が国が列強に占領され、独立を脅かされかねない事態になり得るものであった。

神戸事件における偶然とは、第一に、大政奉還後、朝廷が開国和親を宣言する前に発生した事件であったこと。第二に、各国公使が居留地に集まっていたこと。このことが、事件による騒ぎを大きくしてしまう。2つの偶然を前提に、各国公使、新政府、そして備前藩の置かれた状況を整理してみたい。

まず、各国公使であるが、英国は早くから新政府を支援していたが、フランスは事件当時も幕府を支援していた。そのため、思惑もそれぞれ違っており、決して一枚岩ではなかったのである。

続いて新政府の状況だが、鳥羽伏見の戦いが終結した直後、これから江戸幕府と本格的な戦争を想定していた矢先、神戸居留地が外国人によって占拠された。新政府としては寝耳に水の出来事であり、今、諸外国と戦う余裕などとてもなく、一刻も早く事件の収束を望んだのではあるまいか。

最後に備前藩であるが、当時の備前藩主池田茂政(いけだもちまさ)は水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)の九男、つまり将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の弟である。大政奉還、鳥羽伏見の戦いを経て、政治的に難しい立場に立たされている最中に発生した事件であった。

このように、それぞれの思惑が交錯する中、各国公使間の綱引きの結果として要求されたのが滝善三郎の切腹であり、新政府がそれを承諾。命令を受けた備前藩もそれに従った。神戸事件は短期間で様々な決定がなされているが、その背景には複雑な状況があったことも考えなければならない。

  • 『新修神戸市史 歴史編Ⅳ 近代・現代』 神戸市 1994年 
  • 『再版 神戸市史 本編総説』 神戸市 1937年 
  • 『神戸残影』 久元喜造 2019年 
  • 『岡山県史』 1985年

コラム2

『滝善三郎を育てた備前岡山藩』

兵庫大仏がそびえる天台宗能福寺の正門をくぐり、すぐ左手にある滝善三郎の墓にはしきびが供えられていた。滝善三郎は神戸事件における発砲責任者とされ、各国公使の要求のとおり死罪となるが、切腹における堂々とした振る舞いは今も語りつがれている。

滝善三郎を育てた備前岡山藩とはどのような藩であったのか。藩の取り組みや当時の状況を知ることで、滝善三郎という人間を知りたいと思う。

三代藩主池田光政(いけだみつまさ)は水戸藩主・徳川光圀(とくがわみつくに)、会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)と並び江戸初期の三名君とされ、陽明学者・熊沢蕃山(くまざわばんざん)を登用し、寛文9年(1669)全国に先駆けて藩校「岡山学校」を開校した。さらに、寛文10年(1670)には、日本最古の庶民の学校として「閑谷学校(しずたにがっこう)」(備前市、講堂は現在国宝)も開いている。光政の子で四代藩主・池田綱政は元禄13年(1700)に偕楽園(水戸市)、兼六園(金沢市)と共に日本三名園とされる大名庭園・後楽園を完成させている。

幕末に九代藩主となった池田茂政(いけだもちまさ)は、水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)の九男、将軍徳川慶喜の弟であった。慶応3年10月15日(1867)、大政奉還にともない難しい立場におかれた茂政は、朝廷から上洛を命じられる。さらに翌慶応4年(1868)、王政復古の大号令の後、兄の徳川慶喜追討の勅命が出され、岡山藩も東征軍に参加を求められた。しかし、慶喜の弟である茂政は兄を討つための討伐軍に加わらず、3月15日に朝廷に対して病を理由に隠退・養子届けを出し、家督を鴨方藩主であった養嗣子の章政に譲って隠居をした。慶応4年1月に発生した神戸事件は、このような状況下で起こっているのである。

推測ではあるが、滝は自藩のおかれた難しい立場を理解していたのではないか。さらには、備前岡山藩に根付く儒教教育を、滝善三郎も受け継いでいたはずである。滝善三郎の行動、態度の根底には、このような背景があったように思えてならない。

滝の死後、家老日置帯刀(ひき(へき)たてわき)は、知行地人民に対して特別の論告を発している。

  1. 今回の処置は内憂外患の事態のなかで生じたやむをえないことであること
  2. 滝善三郎は大忠臣であること
  3. 目下朝廷御難事の場合であるゆえ、いささかでも人心を沸騰させるような批判をしてはならないこと

以上の三点を強調して、事実上の箝口令をしいた。

また、滝善三郎は切腹後、国家の大事を救った大忠臣と称えられ、滝家は百石から五百石へと加増されたという。

岡山後楽園には、今も弓や馬の練習場跡が残っている。滝善三郎もここで馬術を習い、弓の腕を鍛えたのだろう。岡山城は令和の大改修によって幕に覆われていたが、幕越しにもその勇壮さを漂わせていた。滝の犠牲によって得たもの、失ったものの大きさを考えてしまう。少なくとも、今ある神戸の街は、滝善三郎の犠牲の上に存在しているといっても過言ではないと思う。