しかし、この積極的な経営の多角化と大躍進が鈴木商店の破綻をもたらす原因となった。この経営の多角化は、貿易で稼いだ利潤を多数の事業に投資し、その事業の資産と株式を担保にして台湾銀行から借り入れることによって進められてきた。ところが、第一次世界大戦後の戦後不況により莫大な手持ち商品と原料製品の価格が下落し、取引先企業の多くが倒産するに及んで、高金利の借入金の返済が滞るようになり、返済のための借入を重ねることになった。また大戦後の不況の下で、大正11年(1922)のワシントン海軍軍縮条約の影響による鈴木系の神戸製鋼所の経営悪化、大正15年(1926)に日本製粉が日清製粉との合併に失敗して資金難を拡大したことなどが、鈴木商店の経営をいっそう悪化させた。また、第一次世界大戦時の鈴木商店の躍進に対し、世間からの風当たりは厳しかった。大正7年(1918)には、富山で始まった米騒動が全国化していくが、この時「鈴木商店が米の買い占めや売り惜しみをしている」という世間の「誤解」により、本店が焼き打ちにあっている。
鈴木商店は他の財閥と異なりグループ内に金融機関を持っておらず、台湾銀行からの借り入れに依存していた。そして昭和2年(1927)に金融恐慌の影響で台湾銀行からの融資が打ち切られると、鈴木商店は倒産することとなった。
鈴木商店の倒産後は、旧鈴木系の企業が整理されることとなる。神戸製鋼所、帝国人絹(じんけん)、帝国樟脳、豊年製油、太陽曹達(ソーダ)などは台湾銀行のもとに営業を続けていくことになり、日本製粉は三井物産へ、大日本セルロイドは三菱へ、東洋製糖は大日本製糖と明治製糖へ、それぞれ譲渡された。そして鈴木商店の子会社の日本商業会社は日商(現在の双日)と改称し、再出発を図った。
砂糖の輸入業から商社として発展し、日本を代表する企業グループを形成した鈴木商店は、その後の日本の工業化に大きな功績を残した。