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BE KOBE神戸の近現代史

神戸港の発展 (詳細)

~開港以後の築港計画策定の動き~

最初の築港計画が考えられたのは、明治6年(1873)に初代神戸港長ジョン・マーシャルによるものである。彼の計画は、東西2本の防波堤築造を主としたものであった。初代県令の神田孝平は、これを大蔵省に築港願として提出したものの、明治初期の政府は、財政難ということもあり、巨額の費用を要する神戸築港は当分認めがたいとして却下した。却下された背景には、開港当初の神戸が、商業都市大阪の開市、開港の影響で重要視されていなかったこともあったようである。

しかし、大阪港の水深が浅く蒸気船の入港が難しかったことから、その多くが神戸港に入港することになり、明治14年、15年頃より横浜に次ぐ外国貿易港として発展を見ることとなった。そのため、内外航船を直接係留する桟橋などの施設の整備が急務であったが、それらはもっぱら民間人の手によって進められた。

日清戦争後、さらに貿易量が急増し、神戸港の修築問題は広く関心を集め、明治29年には神戸市会にて「兵庫港海岸改良計画ノ件」が提案され、滝本甚右衛門・丹波謙造・高徳藤五郎・加藤治郎兵衛4議員提案の「築港ノ義ニ付意見書」と併せて神戸港築港調査費が可決され、翌年より調査を開始した。この意見書においては、「東洋貿易市場ノ中心」たるために「兵神両港沿岸ニ一大築港」を築き「築堤ヲ設ケ」、「将来常ニ幾百隻ノ大小船舶安全ニ港内ニ碇泊」できる「東洋ノ一大良港」を切望する旨が書かれている。また、神戸実業協会を中心とする市内8実業団体が築港問題連合協議会を設け、神戸市会に意見書を提出するなど、神戸における築港運動が、市も地元財界も一体となって積極的に推し進められた。

明治35年に神戸市会で「内務・大蔵両大臣ニ提出シタル稟議書ハ再調ヲ要スル廉アルニヨリ一時下戻ヲ請」うという決議のやむなきに至り、築港問題は一時中断することになった。しかし、明治39年(1906)には、阪谷芳郎蔵相が原敬内相に掛け合い、大蔵省主導型で神戸港の築港を実現することを認めさせた。

~第1期修築工事の頃(明治末期~大正中期)~

明治40年(1907)に神戸税関海陸運輸連絡設備工事計画として第1期修築計画が決定した。築港運動の開始以来、10年余の歳月を要し、日露戦争後に至ってようやく第1期修築工事はその緒についたのである。同年9月には、小野浜埋め立て地において起工式が行われ、背後の山にはこれを記念して植樹が行われ市章山が誕生した。

第1期修築工事では、新港第1突堤から第4突堤(第4突堤は西半分)が建設され、第3、第4突堤間の前面航路は水深10.9メートルまで、そのほかの突堤前面は9.1メートルまで浚渫された。また、突堤や泊地を守るために第3防波堤と第1防波堤の一部が完成した。上屋は木造2棟、鉄骨16棟、延べ面積約5万3千平方メートルが建設され、荷役用の起重機27基も設置された。また、港と後背地を結ぶために、小野浜が終点となっていた臨港鉄道が各突堤まで延長された。第1突堤は大正2年(1913)8月、第4突堤西半分は同年11月、第3突堤は大正3年(1914)9月、第2突堤は大正9年(1920)9月に竣工し、陸上設備を含めて大正11年(1922)5月に完成し、当初修築費1,310万円、8か年の事業であったが、最終的に修築費1,510万円と16か年の月日を要した。第1期修築工事の完了に伴い、より大型船の碇泊に必要な泊地と係留岸壁を整え、港と後背地を結ぶ貨物輸送についても配慮された近代的な港湾設備が整備された。

~第2修築工事の頃(大正中期~昭和初期)~

第1期修築工事の進行中に第1次世界大戦が勃発し、未曾有の好景気や世界的な船舶不足が海運業界に造船ブームをもたらし、海運会社も大正4年(1915)から大正7年(1918)の間に78社が新設されるなど、海運業界は異常な活況を呈した。神戸港の取扱貨物も外国貿易貨物トン数は、明治42年(1909)の223万トンから大正7年(1918)には441万トンと約2倍に伸び、内国貿易貨物トン数も大正3年(1914)の213万トンから大正7年446万トンと約2倍に増加していたため、神戸港の一層の拡張計画の実施が急務となった。神戸市は、工事費用の地元負担を国に申し出て、積極的に神戸港拡張計画の実現のための運動を続け、その効もあって大正8年(1919)から10か年継続事業として、国により第2期修築計画が施工された。

第2期修築工事においては、外国貿易設備では、浜辺通地先海面及び海岸通地先海面31万平方メートルを埋め立て、防波堤5300メートルを構築し、第4突堤東半分とその東側に第5、第6突堤をつくり、折から急増してきた内国貿易の設備としては、兵庫地先海面を中心に33万平方メートルを埋立て、中突堤及び兵庫第1、第2突堤を構築し、鉄道延長を含む陸上設備を建設しようとするものであった。

しかしながら、第1次世界大戦後の不況に伴う政府の財政緊縮もあって、当初大正17年度に完成予定であったものの、大正12年(1923)の春に政府は2か年の繰り延べを決め、神戸市会の陳情により1か年の繰り延べに縮小したものの、同年9月の関東大震災の影響により大正14年(1925)に政府はより徹底した緊縮財政方針を打ち出し、第2期工事はさらに5か年の繰り延べとなった。さらに追い打ちをかけるように昭和2年(1927)に金融恐慌が勃発し、緊縮方針をとる浜口雄幸内閣が成立したこともあって、神戸市会はより危機感を深め、通算8度の意見書を政府に対して提出している。またこれらの繰り延べ反対運動は全市的に波及し、市内衛生組合長会議が築港工事延期の反対声明書を提出している。

第2期築港工事は当初予算の約2倍の5,000万円を要し、追加工事も含め最終的に第一期工事も合わせて合計で7,800万円となって、昭和14年(1939)5月になってようやく完成を迎えた。これら第1期・第2期の修築工事を経た神戸港は、名実ともに当時における東洋一の港湾としての威容を整えるに至り、貨物量も昭和12年(1937)度に1,769万トンを扱い史上最高を記録している。その後、日中戦争の勃発によって商工的要素に加えて軍事的要素も増えたため、第二期追加工事として、防波堤の移設、第7突堤、都賀川以東水域の埋め立て等が計画された。軍事輸送等で港はフル稼働の状態となったが、第2次世界大戦による資材難のため、追加工事は中断された。

コラム記事

コラム1

兵庫運河の開削と兵庫運河株式会社

新川運河、兵庫運河本線・支線、苅藻島運河、新湊川運河を総称して兵庫運河と呼び、水域面積約34ヘクタール、延長6,470メートルで明治32年(1899)に日本最大級の運河として全線開通した。

この兵庫運河の始まりともいえる工事が、明治7年(1874)より着手された新川運河の開削である。開港以後、神戸の海岸では、運上所の設置、波止場や荷上場の築造など荷役設備が漸次改良されてきたのに対し、兵庫方面は依然として昔のままの姿であった。かねてより兵庫港は、台風が来た際の避難場所がないため船舶はしばしば被害を受け、また和田岬を大きく迂回しなければならない不便さがあり、江戸時代にも改修が検討されてきた。兵庫区長であった神田兵右衛門(こうだひょうえもん)は、県令神田孝平(かんだたかひら)の協力を仰ぎ、北風正造によって官民協力の新川社が設立されると、神田兵右衛門は新川開通主任として改修に着手した。神戸の商人島田重五郎らが多額の私財を投じて資金難を克服しつつ、島上町から今出在家町までの約1,000メートルを開削して船溜まりが作られ、その浚渫土砂を利用して従前の入江を埋め立て、17,490平方メートルの土地(現在の中之島付近)を造成し、明治8年(1875)5月に竣工した。これにより小型船舶が台風時などに避難する場所ができた。

明治10年代中ごろには、西尻池の池本文太郎、駒ヶ林の八尾善四郎ら有志が、和田岬の迂回を解消するため、新川運河と林田村付近まで結ぶ兵庫運河を計画したが、資金不足と経済環境の変動等で実現できなかった。その後、東京の安田善次郎らの支援・出資によって明治26年(1893)11月に兵庫運河の開削と通船料と貸地料による運営を実施する「兵庫運河株式会社」が創立された。兵庫新川から八部郡駒ヶ林への本線、山陽鉄道停車場までの支線の2本の運河の開削と中央に26,000坪の船舶係留所を設置することを計画し、工事を進めるにあたり周辺の土地の買収を進めようとするも地主との交渉はかなり難航した。明治29年(1896)1月にようやく起工式が行われ、工事費は当初予定の25万円を大幅に上回る約60万3千円で、明治32年(1899)12月に完成を迎えた。完成した兵庫運河は、本線1,035間(水深15尺、水面幅128尺)、支線400間(水深12尺、水面幅50尺)、船溜本線18,930坪、支線600坪、会社所有地10万坪となっている。また、道路横断箇所には、船の航行を妨げないよう可動橋が多数架けられた。開運後早々に年間の通過船舶約10万隻、坪80銭の土地が開通後5円以上になったといわれるなど、その影響は顕著なものが見られた。

さらに兵庫運河会社では、運河の林田村出口の浅瀬が航行に支障をきたすことから、運河開削の土砂で、埋め立て造成を行い、明治31年(1898)4月には苅藻島を竣工した。はじめ約3,000坪であったが、さらに33年(1900)1月には第2期3,000余坪を付け加え、沿岸貨物の陸揚の便に充てるとともに、宅地に利用した。

運河沿いには、製粉工場や製油工場等が林立し、工場や倉庫も多数建設されるなどにぎわったが、開削時の土地買収費が尾を引き、さらに水深維持の浚渫も負担が大きく、通船料の値上げにも厳しい反発を受け、兵庫運河会社の経営状況は芳しくなかった。その後、大正8年(1919)12月に神戸市に60万円で買収されて、兵庫運河株式会社は解散した。

兵庫運河の改修と役割の変化

開運後、大正13年(1924)に入津船舶数が36,782隻に達し、これに筏を加えるとおびただしい数に上った。また、運河に出入りする貨物も年平均16~17万トンであった。兵庫運河の施設が、神戸市に買収された際に島の西部の土地も市の所有となったが、数度の護岸修築の甲斐なく、常に波浪に侵された結果、土地のほとんどを失っていた。その崩壊土砂に漂砂も加わって寄洲ができ、大小の船舶が雑然と停泊するようになった。かねてより西南の風の吹き荒れた際に遭難する船舶などが多かったことから、貨物や人命の惨状はひどく、神戸市も航行の安全と物資の集散を円滑にし、付近一帯の工場及び倉庫の利便を図るため、大正14年(1925)に苅藻島運河の浚渫と公有水面の埋め立てを申請した。

総工費約146万円を要したこの工事は、昭和2年(1927)10月に着手され、苅藻島南岸一帯に陸地を保護するための防波護岸を築造し、新運河の開削とその土砂で約64,000平方メートルの土地を造成して、昭和6年(1931)4月に完成を迎えた。この事業は、神戸市が港湾施設の建設を自ら施工した初めての大規模な工事と考えられ、このころからようやく市の港湾部門の陣容も整い、工事を施工できるようになった。

兵庫運河では、高松橋付近に工場や倉庫があるほかは、人家が運河沿いに接して立ち並び、艀の通路として使用されるに過ぎず、神戸港の貯木場不足で運河の水面は艀の入る余地もないほど木材で埋め尽くされるようになった。第2次世界大戦後には、復興のためさらに多大な木材が入貨することが予想され、昭和21年(1946)頃より高松橋上流の三角州を除却・浚渫して、貯木場とする計画が国によって予算計上された。引き続き昭和22年(1947)には、兵庫運河本線や苅藻島運河等の浚渫も実施された。翌昭和23年(1948)には、兵庫運河の修築計画が都市計画事業として、5か年継続事業として着工されることとなり、運河の拡幅や、運河沿線の全物揚場化、貯木場や船溜の新設が行われ、最終的に昭和32年(1957)まで継続され、総額1億4,000万円の大工事であった。なお、運河の浚渫工事中には、大輪田橋付近の河底から、かつて平清盛が「経ヶ島」の築島を行って泊地の安全を図った時、石椋(いわくら)と称する石塊も出土している(防波堤の築造工事が波浪のため破壊したので、石の表面に一切経を書いて投入し、人柱の代わりとしたという)。

平成になると、木材の輸入方法が原木からコンテナによる製材へ変化したことにより、貯木場としての役割を終え、また、運河水面を利用していた企業も産業構造の変化等により減少した。平成5年(1993)には、神戸市により市民に親しまれる運河沿いの空間・散歩道として「新川運河キャナルプロムナード」が整備され、また最近では、神戸港での廃材を活用して干潟が作られ、海藻や海生生物の生息場を創出し、地元浜山小学校の環境学習場所となるなど、市民の憩いの場として活用が進められている。兵庫運河祭を代表とした賑わいイベントも多数行われているため、これまでの歴史を感じるとともに、整備されたプロムナードを中心に新たな姿を見せる兵庫運河を周遊していただきたい。

  • 『神戸開港百年史 建設編』 神戸開港百年史編集委員会 神戸市 1970年 79~81頁、474~478頁、869~874頁
  • 『神戸開港百年史 港勢編』 神戸開港百年史編集委員会 神戸市 1970年 38~39頁、72~73頁

コラム2

神戸港の発展と神戸市立水上児童寮

神戸港の歴史の知られざる一面として、水上児童寮の歴史を紹介したい。

神戸市立水上児童寮は、港湾における水上生活者の子弟を保護するための公立児童福祉施設として、昭和13年、長田区重池町の地に全国で初めて設置された。

奇しくもその存在によって、昭和期の神戸港の発展を支えた水上生活労働者の姿が浮かび上がる。その経緯の特殊性とともに草創期における教育理念により、多方面から注目を浴び、小説や演劇の素材ともなった。

日頃陸上で生活する者からは想像しにくい神戸港の水上労働者の生活実情から生じた施設設置の必要性とその後の港湾の変遷という側面、および戦時色の濃い時代にありながらもアメリカにおける児童福祉をベースにした個性の伸長・社会性の育成・健康管理などの先見的な教育理念に基づく実践活動からスタートしその後地域社会と共生していく過程という側面の両面から、昭和期の神戸を象徴する歴史のひとつとして捉えることの意義は大きいものと思われる。

施設開設に至った経緯を見てみると、その起点として、昭和9年1月24日の神戸水上協会長並びに神戸水上方面委員会長の連署による「水上生活者託児所設置に関する件陳情」が挙げられる。それによると、船内居室は、艀の後部にある小さな「ハッチカバー」を出入口とし、室内は子どもすら飛び跳ねることができず艀内の居住空間はわずか1坪(約3.3㎡程度)、非衛生的な生活状態で、中には誤って海に落ちたり、溺死するものもあったという。

当時、艀の所在地及び概数は、兵庫川崎・中ノ島・新川南口 1,000、高浜三菱倉庫附近より京橋 700、運河方面 150、葺合港湾・鈴木港湾・森本倉庫附近 500、計 2,350であった。

第3代寮長を務めた大西雄一氏は次のように振り返る。

「寮設立の趣旨は、港湾作業に大きな役割を果たしている艀船頭の、船内居住から生じる家族生活の諸問題を解決して、安心して働いてもらい、仕事の円滑を図ることにありました。狭い艀船のなかでの暮らしでは、ずいぶんと不都合なことが起きました。学校へは満足に通えない、病気になったらどうしようもない、狭い閉鎖された環境では世間並な生活の常識に欠けることが多い、その他不便な、不都合な、困ったことだらけ。こうした悩みが、当然のこととして、港湾作業の能率に大きく影響してきます。学校行きの子供たちを、安心して預けられる施設を、ぜひ何とかしてほしいーの切実な要望に、港湾都市神戸らしく答えたのがこの水上児童寮でありました。・・・

単なる寄宿寮ではなく、今日の理想像―児童憲章の内容に合致した全人教育を意図し、その実践をしたのだから、その頃の「社会事業」の通念では、まさに画期的な、冒険的な試みであったといえます。この考え方と実践の基礎は、初代寮長の荒井さんによってつくられたものでした。アメリカにながく留学し社会福祉を勉強してきた荒井さんは、その抱負経綸を傾注して、この寮の経営に当りました。・・・

児童寮のユニークな実践活動が世間の注目の的になってきました。・・・各方面のいろんな方々が、親身になって側面から応援してくださった。・・・子供が心身ともにめざましく成長していく姿をみての親たちの感動は、予期せざる親たちの社会教育にもなってきました。通学先の小学校の先生が、この寮の生活をモデルに、小説「河童の園」を書いた。それが本になり、劇になった。・・・たいへん好評で、これまた寮の、神戸市の評判を高め、新しい教育、児童福祉のあり方を示すものとして、全国的にまで話題になり、遂に皇族が視察にみえるようになりました。・・・何人かは、後年その育った児童寮の保母さんになって奉仕しました。・・・私は、創設期のこの寮の寮長であったことを、今でも心から誇りとしています。・・・」

その後、戦時、復興期、高度成長期を経て、コンテナ船の出現に至り、水上児童寮も、港湾施設の省力化、近代化によって、その使命を終えることとなった。神戸港の発展の陰で、昭和54年3月、水上児童寮41年の歴史に幕が下ろされた。

  • 「神戸市立水上児童寮閉寮記念出版 寮と変遷 その41年の歩み」(1979年 神戸市立水上児童寮)