兵庫運河の開削と兵庫運河株式会社
新川運河、兵庫運河本線・支線、苅藻島運河、新湊川運河を総称して兵庫運河と呼び、水域面積約34ヘクタール、延長6,470メートルで明治32年(1899)に日本最大級の運河として全線開通した。
この兵庫運河の始まりともいえる工事が、明治7年(1874)より着手された新川運河の開削である。開港以後、神戸の海岸では、運上所の設置、波止場や荷上場の築造など荷役設備が漸次改良されてきたのに対し、兵庫方面は依然として昔のままの姿であった。かねてより兵庫港は、台風が来た際の避難場所がないため船舶はしばしば被害を受け、また和田岬を大きく迂回しなければならない不便さがあり、江戸時代にも改修が検討されてきた。兵庫区長であった神田兵右衛門(こうだひょうえもん)は、県令神田孝平(かんだたかひら)の協力を仰ぎ、北風正造によって官民協力の新川社が設立されると、神田兵右衛門は新川開通主任として改修に着手した。神戸の商人島田重五郎らが多額の私財を投じて資金難を克服しつつ、島上町から今出在家町までの約1,000メートルを開削して船溜まりが作られ、その浚渫土砂を利用して従前の入江を埋め立て、17,490平方メートルの土地(現在の中之島付近)を造成し、明治8年(1875)5月に竣工した。これにより小型船舶が台風時などに避難する場所ができた。
明治10年代中ごろには、西尻池の池本文太郎、駒ヶ林の八尾善四郎ら有志が、和田岬の迂回を解消するため、新川運河と林田村付近まで結ぶ兵庫運河を計画したが、資金不足と経済環境の変動等で実現できなかった。その後、東京の安田善次郎らの支援・出資によって明治26年(1893)11月に兵庫運河の開削と通船料と貸地料による運営を実施する「兵庫運河株式会社」が創立された。兵庫新川から八部郡駒ヶ林への本線、山陽鉄道停車場までの支線の2本の運河の開削と中央に26,000坪の船舶係留所を設置することを計画し、工事を進めるにあたり周辺の土地の買収を進めようとするも地主との交渉はかなり難航した。明治29年(1896)1月にようやく起工式が行われ、工事費は当初予定の25万円を大幅に上回る約60万3千円で、明治32年(1899)12月に完成を迎えた。完成した兵庫運河は、本線1,035間(水深15尺、水面幅128尺)、支線400間(水深12尺、水面幅50尺)、船溜本線18,930坪、支線600坪、会社所有地10万坪となっている。また、道路横断箇所には、船の航行を妨げないよう可動橋が多数架けられた。開運後早々に年間の通過船舶約10万隻、坪80銭の土地が開通後5円以上になったといわれるなど、その影響は顕著なものが見られた。
さらに兵庫運河会社では、運河の林田村出口の浅瀬が航行に支障をきたすことから、運河開削の土砂で、埋め立て造成を行い、明治31年(1898)4月には苅藻島を竣工した。はじめ約3,000坪であったが、さらに33年(1900)1月には第2期3,000余坪を付け加え、沿岸貨物の陸揚の便に充てるとともに、宅地に利用した。
運河沿いには、製粉工場や製油工場等が林立し、工場や倉庫も多数建設されるなどにぎわったが、開削時の土地買収費が尾を引き、さらに水深維持の浚渫も負担が大きく、通船料の値上げにも厳しい反発を受け、兵庫運河会社の経営状況は芳しくなかった。その後、大正8年(1919)12月に神戸市に60万円で買収されて、兵庫運河株式会社は解散した。
兵庫運河の改修と役割の変化
開運後、大正13年(1924)に入津船舶数が36,782隻に達し、これに筏を加えるとおびただしい数に上った。また、運河に出入りする貨物も年平均16~17万トンであった。兵庫運河の施設が、神戸市に買収された際に島の西部の土地も市の所有となったが、数度の護岸修築の甲斐なく、常に波浪に侵された結果、土地のほとんどを失っていた。その崩壊土砂に漂砂も加わって寄洲ができ、大小の船舶が雑然と停泊するようになった。かねてより西南の風の吹き荒れた際に遭難する船舶などが多かったことから、貨物や人命の惨状はひどく、神戸市も航行の安全と物資の集散を円滑にし、付近一帯の工場及び倉庫の利便を図るため、大正14年(1925)に苅藻島運河の浚渫と公有水面の埋め立てを申請した。
総工費約146万円を要したこの工事は、昭和2年(1927)10月に着手され、苅藻島南岸一帯に陸地を保護するための防波護岸を築造し、新運河の開削とその土砂で約64,000平方メートルの土地を造成して、昭和6年(1931)4月に完成を迎えた。この事業は、神戸市が港湾施設の建設を自ら施工した初めての大規模な工事と考えられ、このころからようやく市の港湾部門の陣容も整い、工事を施工できるようになった。
兵庫運河では、高松橋付近に工場や倉庫があるほかは、人家が運河沿いに接して立ち並び、艀の通路として使用されるに過ぎず、神戸港の貯木場不足で運河の水面は艀の入る余地もないほど木材で埋め尽くされるようになった。第2次世界大戦後には、復興のためさらに多大な木材が入貨することが予想され、昭和21年(1946)頃より高松橋上流の三角州を除却・浚渫して、貯木場とする計画が国によって予算計上された。引き続き昭和22年(1947)には、兵庫運河本線や苅藻島運河等の浚渫も実施された。翌昭和23年(1948)には、兵庫運河の修築計画が都市計画事業として、5か年継続事業として着工されることとなり、運河の拡幅や、運河沿線の全物揚場化、貯木場や船溜の新設が行われ、最終的に昭和32年(1957)まで継続され、総額1億4,000万円の大工事であった。なお、運河の浚渫工事中には、大輪田橋付近の河底から、かつて平清盛が「経ヶ島」の築島を行って泊地の安全を図った時、石椋(いわくら)と称する石塊も出土している(防波堤の築造工事が波浪のため破壊したので、石の表面に一切経を書いて投入し、人柱の代わりとしたという)。
平成になると、木材の輸入方法が原木からコンテナによる製材へ変化したことにより、貯木場としての役割を終え、また、運河水面を利用していた企業も産業構造の変化等により減少した。平成5年(1993)には、神戸市により市民に親しまれる運河沿いの空間・散歩道として「新川運河キャナルプロムナード」が整備され、また最近では、神戸港での廃材を活用して干潟が作られ、海藻や海生生物の生息場を創出し、地元浜山小学校の環境学習場所となるなど、市民の憩いの場として活用が進められている。兵庫運河祭を代表とした賑わいイベントも多数行われているため、これまでの歴史を感じるとともに、整備されたプロムナードを中心に新たな姿を見せる兵庫運河を周遊していただきたい。
- 『神戸開港百年史 建設編』 神戸開港百年史編集委員会 神戸市 1970年 79~81頁、474~478頁、869~874頁
- 『神戸開港百年史 港勢編』 神戸開港百年史編集委員会 神戸市 1970年 38~39頁、72~73頁
神戸港の発展と神戸市立水上児童寮
神戸港の歴史の知られざる一面として、水上児童寮の歴史を紹介したい。
神戸市立水上児童寮は、港湾における水上生活者の子弟を保護するための公立児童福祉施設として、昭和13年、長田区重池町の地に全国で初めて設置された。
奇しくもその存在によって、昭和期の神戸港の発展を支えた水上生活労働者の姿が浮かび上がる。その経緯の特殊性とともに草創期における教育理念により、多方面から注目を浴び、小説や演劇の素材ともなった。
日頃陸上で生活する者からは想像しにくい神戸港の水上労働者の生活実情から生じた施設設置の必要性とその後の港湾の変遷という側面、および戦時色の濃い時代にありながらもアメリカにおける児童福祉をベースにした個性の伸長・社会性の育成・健康管理などの先見的な教育理念に基づく実践活動からスタートしその後地域社会と共生していく過程という側面の両面から、昭和期の神戸を象徴する歴史のひとつとして捉えることの意義は大きいものと思われる。
施設開設に至った経緯を見てみると、その起点として、昭和9年1月24日の神戸水上協会長並びに神戸水上方面委員会長の連署による「水上生活者託児所設置に関する件陳情」が挙げられる。それによると、船内居室は、艀の後部にある小さな「ハッチカバー」を出入口とし、室内は子どもすら飛び跳ねることができず艀内の居住空間はわずか1坪(約3.3㎡程度)、非衛生的な生活状態で、中には誤って海に落ちたり、溺死するものもあったという。
当時、艀の所在地及び概数は、兵庫川崎・中ノ島・新川南口 1,000、高浜三菱倉庫附近より京橋 700、運河方面 150、葺合港湾・鈴木港湾・森本倉庫附近 500、計 2,350であった。
第3代寮長を務めた大西雄一氏は次のように振り返る。
「寮設立の趣旨は、港湾作業に大きな役割を果たしている艀船頭の、船内居住から生じる家族生活の諸問題を解決して、安心して働いてもらい、仕事の円滑を図ることにありました。狭い艀船のなかでの暮らしでは、ずいぶんと不都合なことが起きました。学校へは満足に通えない、病気になったらどうしようもない、狭い閉鎖された環境では世間並な生活の常識に欠けることが多い、その他不便な、不都合な、困ったことだらけ。こうした悩みが、当然のこととして、港湾作業の能率に大きく影響してきます。学校行きの子供たちを、安心して預けられる施設を、ぜひ何とかしてほしいーの切実な要望に、港湾都市神戸らしく答えたのがこの水上児童寮でありました。・・・
単なる寄宿寮ではなく、今日の理想像―児童憲章の内容に合致した全人教育を意図し、その実践をしたのだから、その頃の「社会事業」の通念では、まさに画期的な、冒険的な試みであったといえます。この考え方と実践の基礎は、初代寮長の荒井さんによってつくられたものでした。アメリカにながく留学し社会福祉を勉強してきた荒井さんは、その抱負経綸を傾注して、この寮の経営に当りました。・・・
児童寮のユニークな実践活動が世間の注目の的になってきました。・・・各方面のいろんな方々が、親身になって側面から応援してくださった。・・・子供が心身ともにめざましく成長していく姿をみての親たちの感動は、予期せざる親たちの社会教育にもなってきました。通学先の小学校の先生が、この寮の生活をモデルに、小説「河童の園」を書いた。それが本になり、劇になった。・・・たいへん好評で、これまた寮の、神戸市の評判を高め、新しい教育、児童福祉のあり方を示すものとして、全国的にまで話題になり、遂に皇族が視察にみえるようになりました。・・・何人かは、後年その育った児童寮の保母さんになって奉仕しました。・・・私は、創設期のこの寮の寮長であったことを、今でも心から誇りとしています。・・・」
その後、戦時、復興期、高度成長期を経て、コンテナ船の出現に至り、水上児童寮も、港湾施設の省力化、近代化によって、その使命を終えることとなった。神戸港の発展の陰で、昭和54年3月、水上児童寮41年の歴史に幕が下ろされた。
- 「神戸市立水上児童寮閉寮記念出版 寮と変遷 その41年の歩み」(1979年 神戸市立水上児童寮)