第一次世界大戦中の神戸市は急速に膨張した。大戦前の大正2年と大正7年を比較してみると、人口は約45万人から59万人へ、工業生産額は約9千万円から3億2千万円へ、貿易額は約5億2千万円からへ13億2千万円へ急速に発展している。また、人口や物資の流入に伴い、交通量や輸送量も急増した。
市の膨張
都市計画事業の開始
このような都市の急激な膨張に伴って発生する諸問題、特に交通量の増大に対しては、神戸市も早くから調査及び対策の立案を開始していた。
都市膨張に対して事前に対策を考える都市計画は19世紀から欧米で取り組まれ、この中から街路線・建築線制度、土地区画整理、用途地域制などの近代都市計画の方法が生み出されたが、日本でも都市計画法が大正9年(1920)1月に、市街地建築物法が12月に施行された。
この都市計画法では、従来と異なり、行政区域を越えた「都市計画区域」が設定され、国家機関によって認可決定された計画を市長が行政区域を越えて事業執行するものとなった。
神戸市は都市計画法施行と同時にその対象地域となり、大正9年(1920)8月の第1回都市計画神戸地方委員会では、委員会会長である有吉知事が都市計画区域の設定や、急を要する事業としての交通網・下水道・公園施設など公共工事などを決めることを求めた。
こうして、調査は主に県が、実施は市が行う形で出発することとなるが、例えば大正10年度の計画事業調査事業は膨大なものとなった。
都市計画の中心的課題の一つは、交通機関整備のための道路計画であるとされたが、特に自動車輸送の発達によりその重要性は一層増した。都市計画街路網は、大正9年(1920)にその調査に着手して以来、7年間を費やして決定され、大正15年(1926)に完成した阪神国道と建設中の神明国道を結ぶことを中心としたもので、これに南北に結ぶ補助路線が加わり、全体として、大阪―尼崎―西宮の都市計画とも連動する連市計画の一部とされた。
その他、神戸港第一期修築の終了に続く第二期工事の開始、国鉄高架問題、阪急・阪神両私鉄の市中心部への乗り入れ、市電の拡張、水道拡張工事など、近代都市としての基盤整備事業が矢継早に展開された。
都市計画と市域拡張
都市膨張による市域拡張問題を解決するため、隣接町村編入の打診は大正7年(1918)頃から始まっていた。都市計画法適用により、上水道・消防・道路・電車・警察などの整備充実が必須となる中、各町村の財力だけでは賄うことができないなどの理由から、須磨町と神戸市は双方利益のため、大正9年(1920)に須磨町の編入が実現した。
また、西郷町、西灘村、六甲村の東部3町村については神戸市のベッド・タウンとして急速な人口膨張を遂げていたことから、都市計画事業の進行とともに神戸市が同一行政区域化を図ろうとしたのは当然であった。西灘村・六甲村との編入協議が進む中、西郷町は合併に関する協定を市と結び、編入後5年間は、昭和3年度の家屋税負担総額を超えないこと、同じく尋常小学校の授業料も5年間は徴収しないこと、酒造業に悪影響を及ぼすような施設を設けないことなどの特色をもった条項が盛り込まれた。
以上のように須磨町と東部3町村の神戸市への編入は、いずれも都市計画法とその実施が決定的作用を及ぼしたのであった。
学区の統一
第一次世界大戦期の人口増加に伴う社会問題として、学区の問題が挙げられる。学区とは、学校の設立維持にあたる行政区画の単位を指し、東京・大阪をはじめとする諸都市で、市制施行以後も市に統一されず、別個の区画として残されていた。
市内の学齢児童数は、人口増加とともに急速に増加しており、学区ごとに様々な利害関係を生じさせた。明治23年(1890)10月に制定された「地方学事通則」が共有財産収入を学区の経費にあてると定めたことから、神戸区や湊西区のような豊富な区有財産を有していた学区は、その収入により教育普及を推進していった。一方で、工業地区としての発達に伴い、人口、学齢児童数が急速に増加する中、市の周辺部に位置する学区は、財政的に困窮していたため、日常の教育活動に支障が出ることがあった。
このように学区間で格差が生まれるようになったことから、学区制を廃止し、地域間格差の是正を図った。
社会運動と社会政策
第1次世界大戦がもたらした未曽有の好景気により、人々の生活は大いに潤されることとなった。しかし、大正7年の夏、大戦中のインフレに加え、シベリア出兵の情報が伝わって軍需を見越した米の買い占めや売り惜しみが始まり、米価は鰻登りに上昇したことで、生活のゆとりは一瞬にして消えたのである。
このような背景から、富山県の漁村の主婦たちの蜂起をきっかけに、全国で米騒動が始まった。神戸でも米価の暴騰に抗議するため湊川公園に人々が集まり、米屋への襲撃が行われた。米騒動は激化の一途をたどり、弾圧のみで事態を好転させることは最早不可能になっていた。解決策として、神戸市は食料品の廉売を目的とする公設市場と安価な食事を提供する公設食堂を、労働者の集住地域3か所に設置することで、生活安定を図った。
また物価高騰に伴う生活難から、労働者が起こした労働争議なども発生した。例えば川崎造船所本工場工作部有志は、大正8年9月15日付で賃上げ要求を中心とした嘆願書を会社に提出した。しかしこの要求を会社側が拒絶したので、日本で最初の本格的なサボタージュ戦術が展開された。この戦術により、松方社長が8時間労働制と賃金の大幅なアップを約束したことで勝利を収めることとなった。
このように都市膨張や不景気に伴うさまざまな社会問題が市域全体で生じたことで、神戸市も市民の生活権を基礎とした行政を展開していくようになった。
- 『新修神戸市史 歴史編Ⅳ 近代・現代』 神戸市 1994年 448~564頁