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BE KOBE神戸の近現代史

神戸の自然災害 (詳細)

神戸の地質、気象条件について

神戸市は、地形上六甲山系により南北に二分されており、大阪湾に面した南側は、六甲山系の山麓部とそこから流れ出る中小河川による扇状地、海岸低地及び埋立地によって構成され、この地域に神戸の中心部が位置している。

六甲山の地質としては、大部分が花崗岩類でできている。花崗岩は深成岩で、地下深所で生成されたものであるが、六甲山系の形成にあたり発生した六甲変動と呼ばれる地殻変動の影響による隆起と、被覆していた堆積層の削剥により、現在のような形で地表に露出している。この花崗岩は表層部分だけでなく、深層まで風化が及んでいる。

花崗岩地帯は、一般に地下水位が低く、土壌が貧弱であるため、伐採などがなされるとなかなか植生が復活せず、土壌が流されてはげ山になりやすい。また風化すると非常にもろく、マサ(真砂)とよばれる砂状の岩石になる。マサは雨で浸食されやすく、水を含むと崩れやすくなる性質を持つため、しばしば過去の水害にみられるような土石流を引き起こすことがある。

神戸市の自然条件としては、このような六甲山系の雨に弱い地質のほか、崩壊現象を助長する断層、破砕帯が多く存在しており、市街地においても地形的にみれば急斜面が多く、急勾配の渓流河川が存在するといった特徴がある。また、気象条件からみると六甲山系が瀬戸内海に面して直立している地形から、低気圧や前線の前面で上昇気流を起こしやすく、時として豪雨をもたらす場合がある。

昭和の主な水害

死者(人)
  • 昭和13年 梅雨前線豪雨(阪神大水害)

    616

  • 昭和36年 梅雨前線豪雨

    26

  • 昭和42年 梅雨前線豪雨

    84

  • 昭和9年 室戸台風

    6

  • 昭和25年 ジェーン台風

    1

負傷者(人)
  • 昭和13年 梅雨前線豪雨(阪神大水害)

    1,011

  • 昭和36年 梅雨前線豪雨

    33

  • 昭和42年 梅雨前線豪雨

    35

  • 昭和9年 室戸台風

    23

  • 昭和25年 ジェーン台風

    17

家屋全半壊(戸)
  • 昭和13年 梅雨前線豪雨(阪神大水害)

    8,653※

  • 昭和36年 梅雨前線豪雨

    388

  • 昭和42年 梅雨前線豪雨

    737

  • 昭和9年 室戸台風

    200

  • 昭和25年 ジェーン台風

    3269

  • この他に、別途家屋流出1410戸、家屋埋没854戸あり
浸水(床上・床下)(戸)
  • 昭和13年 梅雨前線豪雨(阪神大水害)

    79,652

  • 昭和36年 梅雨前線豪雨

    19,369

  • 昭和42年 梅雨前線豪雨

    37,521

  • 昭和9年 室戸台風

    10,466

  • 昭和25年 ジェーン台風

    3,269

総雨量(mm)
  • 昭和13年 梅雨前線豪雨(阪神大水害)

    461.8

  • 昭和36年 梅雨前線豪雨

    472.1

  • 昭和42年 梅雨前線豪雨

    319.4

  • 昭和9年 室戸台風

    81.0

  • 昭和25年 ジェーン台風

    209.0

時間最大雨量(mm/h)
  • 昭和13年 梅雨前線豪雨(阪神大水害)

    60.8

  • 昭和36年 梅雨前線豪雨

    44.7

  • 昭和42年 梅雨前線豪雨

    75.8

昭和13年水害(阪神大水害)

昭和13年6月、神戸地方は長雨が続き、7月に入って、梅雨期豪雨の典型的な気候形態を示すようになった。こうした状況のもと、7月3日に風雨が強まり、5日にかけて集中豪雨となった。神戸測候所によれば、7月3日から5日まで3日間に降り続いた雨量は461ミリメートルで、特に5日は降雨が激しく、9時から正午までの3時間の降雨量は134ミリメートルという豪雨であった。その結果、大小問わず河川が増水・氾濫し、市域の各所の急斜面で地滑りやがけ崩れが発生して、大量の土砂が流出した。全市にわたって土砂・巨岩や流木が堆積し、鉄道、道路その他の公共施設にも壊滅的な被害を残した。この土石流が被害を大きくし、復旧を困難にしたことが、この水害の大きな特徴である。

この阪神大水害は、神戸市の面積の26.4パーセントに被害を与え、全市の72パーセント超に及ぶ戸数や人口が被害を受け、現在の市域内でみると、死亡者443名、行方不明者74名に達した。被害総額は1億4千万円を超していたと言われている。最終的な被害状況は表のとおりで、兵庫県下の被害のうち約8割程度が神戸市で発生しているという状況であった。

この大災害に直面した神戸市は応急措置に全力を挙げるとともに、再びこのような災禍に襲われないために「神戸市百年ノ大計」を樹立する必要に迫られた。神戸市復興委員会を設置し、復興に向けた議論が行われる中で、大災害の原因は背山の「特異ナル地質ト、異常ナル豪雨」であることは言うまでもなかったが、そのほかにもいろいろな原因があり、例えばその一つとして新生田川を暗渠とし、その暗渠上を遊歩道としたことが新生田川の大氾濫の主因と指摘された。

神戸市の土木関係職員は、災害の発生前から全員居残りを続け、豪雨を浴びながら徹夜で警戒に当たっていたが、この未曽有の大災害を前になすすべもなかったと言う。しかし彼らは、気持ちを奮い立たせ、復旧作業に邁進した。炎天下の中で、連日作業が続いたが、各地から応援や労力奉仕団の応援を受け、応急復旧的工事を終了させた。彼らの努力の甲斐もあり、河川などはその年その後二度豪雨に見舞われたが、大きな被害を生むことはなかった。また、神戸の水害復興では、治山のための砂防事業も重要で、阪神大水害を契機に国直轄の六甲砂防工事事務所(現六甲砂防事務所)が開設された。これは国の直轄事業として実施され、以後500基を超える砂防ダムが整備され、被害の軽減が図られてきた。

阪神大水害で、当時住吉川沿いの倚松庵で暮らしていた、文豪谷崎潤一郎の「細雪」にも細かく描写され、被害のすさまじさを今に伝えている。

昭和36年水害

昭和36年(1961)6月24日から27日にかけて発生した集中豪雨では、総雨量では昭和13年(1938)の阪神大水害を上回ったが、阪神大水害と比べて一時間当たりの降雨量が少なく、降雨のピークが2回に分散されていたこと等から、土石流等による市街地への土砂の流出量は少なかった。その反面、傾斜地における宅地造成工事中のがけ崩れ、土砂流出による局地的被害が大きかった。

当時は阪神間で都市スプロール化の波が押し寄せ山麓地の無秩序な開発が進行しつつあり、神戸市では昭和35年(1960)5月に全国で初めて「傾斜地における土木工事の規制に関する条例」を定め、危険地での取り締まりや防災工事を義務付けようとしていたが、昭和36年の水害を受け、適用範囲の拡大や工事基準の具体化、罰則の強化等を目的とし、8月に条例の改正を行っている。

また、条例では届出制の範囲を脱することができないため、神戸市は国に対し法律による実効性の高い規制を行うよう働きかけ、意見書(※1)の提出や、当時の神戸市建設局長が国会にて参考人としての意見陳述(※2)を行っている。このように昭和36年水害は、昭和37年(1962)4月に施行された「宅地造成等規制法」制定のきっかけとなった災害でもある。

  1. 「宅地造成規制法案の制定促進に関する意見書」の内容抜粋
    「今回の神戸市の惨状は天災とは言い難く、帰するところこの防災は、政府において立案中の宅地造成規制法案の制定にまつところ極めて大なるものがあると痛感する。政府におかれては、本法案に次の事項をご配慮の上早期実現を期せられるよう強く要望する。」
  2. 意見陳述の内容
    「この法案が一日も早く施行されることを望む。現在の市条例では届出制の範囲を脱することができず、その効果が徹底を欠いている。本法案は事前許可制になっており、これが条例と異なる最大の点で、指導力を強め宅地造成主や施工業者の自覚を促す効果があると思う。」

昭和42年水害

昭和42年(1967)7月9日、台風7号から変わった温帯低気圧に刺激されて、西日本に停滞していた梅雨前線が活発な活動を始め、各地に記録的な集中豪雨を降らせた。この猛烈な豪雨で、神戸市では土砂や流木が市街地に流出し、河川を氾濫させ、広範囲にわたり浸水が発生した。山麓部では急激な出水によるがけ崩れ、家屋の倒壊が生じ、甚大な被害を受けた。特に中央区(当時の葺合区)市ヶ原では、世継山の斜面が大規模に崩落し、山麓の人家が土砂に飲み込まれ、21名の人命が失われている。また、中央区(当時の生田区)の宇治川商店街の西側にあった4階建てと2階建ての鉄筋コンクリート造の建築物が、基礎の部分を激しい水流に洗われ、倒壊した。地震等ではなく、水害でビルが倒壊するといった今までになかった災害現象であった。

昭和42年の水害は、昭和13年の阪神大水害と比べて総雨量は下回るが、時間最大雨量はこれを上回った。阪神大水害とほぼ同程度の豪雨で、しかも山麓部まで宅地化が進む中で、被害は人命7分の1、被災家屋4分の1、被害額は8分の1にとどまった。これは、昭和13年以降に進められた表六甲の砂防工事や河川改修工事、法律に基づく宅地造成の規制の効果が現れたためと考えられている。実際に、砂防事業として住吉川上流に設けられた五助堰堤は、一夜にして流れ込んだ約12万立方メートルもの土砂を受け止め、下流域の被害を軽減させた。一方で、表六甲の大きな河川については国直轄で改修が進められ被害が少なかった半面、それ以外の小さな河川は整備が進まず、川幅が狭められ、暗渠化されていたものも多かった。このような河川では排水能力が低いことに加えて、宅地や道路の舗装により雨水の浸透率が低下し流水量が増加したことで、河川沿いの被害が大きくみられた。この水害が契機となり、神戸市を含む当時の政令市が中心となって国に要望し、昭和45年(1970)に河川改修制度都市小河川改修事業(現在の都市基盤河川改修事業)制度が創設された。これに伴い、兵庫県が管理する二級河川のうち18河川について、神戸市が改修事業を実施することとなった。