1.米軍による本土空襲の開始
昭和6年(1931)の柳条湖事件、昭和12年7月7日の北京郊外の盧溝橋での日本軍と中国軍との衝突を発端として、日中戦争の勃発によって、日本は昭和6年以降15年間の戦争の長いトンネルに入ることとなる。
昭和16年12月8日アメリカのハワイオアフ島の真珠湾を攻撃。ここに日本は連合国との太平洋戦争に突入した。日本軍は、最初の段階では有利に戦争を導いた。しかし、連合軍が準備を整え反撃に出ると、国力の差、科学技術の格差により戦況が逆転し、昭和17年6月のミッドウェー海戦で日本海軍はアメリカ軍の攻撃で大打撃を受けたのをきっかけに、日本軍は次々敗北を繰り返し、昭和19年6月から8月にかけてマリアナ諸島(サイパン・グアム・テニアン島)が占領された。アメリカ軍は、ここに空軍基地を建設して、長距離爆撃機B29による、日本本土空襲が頻繁に行われることとなった。
B29の日本本土空襲はその特徴から大きく二つの時期に分けることができる。
- 軍事施設への精密爆撃(昭和19年11月下旬から20年3月上旬)
航空機や兵器生産をおこなっている主要軍事施設を攻撃目標にした、通常爆弾攻撃。施設の破壊・焼失により、その生産能力を奪うのが目的。主要都市の工業地帯にある航空機生産工場・製鉄所・造船所などが対象となった。 - 大都市人口密集地域への焼夷弾爆撃(昭和20年3月中旬から8月15日)
人口密度の高い地域への焼夷弾投下による住宅の焼尽、都市住民の殺傷を狙いとした無差別攻撃。東京・横浜・名古屋・大阪・神戸への、大量焼夷弾による爆撃。6月以降は中小都市にも対象拡大。
神戸市が空襲目標になったのは、アメリカ軍の資料によると、「神戸は人口100万人の日本で6番目の大都市で日本の主要港である。造船業、基幹産業が集中し、交通の要所でもあることから重要な戦略爆撃目標の一つと位置付けられていた」からである。
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三宮神社付近の空襲の被害状況
2.神戸空襲
神戸市が最初に爆撃を受けたのは、昭和17年(1942)4月である。本土初空襲の際、神戸にはそのうちの1機が来襲、市内兵庫区の西出・島上・鍛冶屋・船大工・川崎町などに焼夷弾を投下した。
これ以後、神戸市上空にアメリカ軍機が飛来したのは、昭和20年8月15日の最後の飛来に至るまで、空襲前の偵察や神戸沖への機雷封鎖、模擬原子爆弾の投下などを含めて84回に及ぶとされる。
このうち、神戸の市街・住宅地と工場などの軍需施設を攻撃の第一目標としてマリアナ基地のB29部隊によって行われた昭和20年2月4日、同年3月17日、同年5月11日、同年6月5日、同年8月6日の5回の空襲が通常「神戸大空襲」と呼ばれている。
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神戸空襲2
(1)昭和20年2月4日、午後2時すぎに潮岬沖に110機確認、そのうち70機が神戸市街地を、午後3時から2時間にわたり爆撃した。林田区(現長田区)、兵庫区、湊東区(現兵庫区・中央区)に焼夷弾と破砕弾、通常爆弾等が投下された。川崎造船所の艦船工場を攻撃目標に、三菱造船所、三菱電機、和田岬国民学校(小学校)、鐘淵紡績、川崎製鉄所、増田製粉所、三菱倉庫、兵庫運河、西部地域の軍需工場群が攻撃をうけた。広範囲に火災が発生し、学校、郵便局、市場、民家などの多くが焼失した。罹災者には、炊き出しや生活品の特別配給があり、焼失を免れた施設が収容場所として提供された。
(2)3月17日未明、午前1時58分空襲警報発令。60機のB29により夜間兵庫、林田、神戸、湊東区を中心に無差別に焼夷弾を投下する絨毯爆撃が行われた。この空襲で使われた焼夷弾は3種類あった。①大型ナパーム・マグネシウム焼夷弾(大規模火災をおこさせるもの)、これは先導する数機に搭載された。 続く主要部隊が投下したのは、②ナパーム焼夷弾(広範囲火災をおこすため上空610メートルで作動させる起爆装置を付けたもの)③マグネシウム焼夷弾(水をかけたら、急速に燃焼する)であった。これには、それぞれ消火方法が違うため、消火活動を困難にさせる目的があった。この日は霰の混じった北風が強く、この風により火災があちこちに飛び火し、直撃弾を免れた場所にも次々火災が起き延焼していった。市街地はすぐさま猛火に包まれた。兵庫区の清盛塚近くの大輪田橋付近では、逃げてきた人々が前後から火をうけて、新開地では、鉄筋建物に逃げこんだ人々が風で吹き込む炎と熱風で、防空壕に避難した人々は猛煙に包まれ窒息し、多くの人が亡くなった。この攻撃はこの日の大本営の発表によれば約2時間にわたっておこなわれた。港湾施設、工業地帯の被害も大きく、三菱神戸造船所・川崎造船所とも各施設を全半焼し、三菱倉庫、三井倉庫、住友倉庫とも倉庫群の多くを焼失した。こうした被害のため港湾機能はほとんど麻痺状態となった。 兵庫・湊東・葺合の各区役所、県庁、神戸地方裁判所、神戸中央郵便局、武庫離宮の宮殿等、湊川神社も焼失した。この空襲により神戸市の西半分が焼失した。
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飛行中のB29
(3)5月11日、この空襲は武庫郡本庄村(現東灘区)青木にあった「川西航空機甲南製作所」が攻撃目標であった。ここでは、最新式小型航空機・新式双発陸上機の製造がおこなわれていたからである。午前9時すぎ空襲警報発令。約60機のB29が神戸市東部上空に侵入し、武庫郡御影町・魚崎町・住吉村・本庄村、本山村(いずれも現東灘区)、灘区に2時間に渡り爆弾を投下、神戸市東部に大きな被害を及ぼした。被害が一番大きいのは、本庄村であり、その周辺の本山村・住吉村・御影町も大きな被害を受けた。甲南製作所の中央工場地帯はほぼ全壊し、工場全体の8割が破壊された。そして、被害は東西に広がり灘区役所、国鉄(現JR)芦屋駅、深江変電所などが全焼し、甲南高等女学校、本庄国民学校 深江国民学校などが半焼、国鉄灘駅などが半壊であった。神戸高等商船学校(現神戸大学海洋政策科学部)、日東航空機工場、住友金属工業も爆弾を受け、大きな被害を受けた。灘警察署とその北側の灘区役所も直爆撃弾を受け、庁舎が破壊された。この空襲は、事前にその可能性について察知されていた形跡があった。それは、5月5日にB29が6機飛来し、和田岬~須磨~明石~洲本を結ぶ海域に機雷投下。その1機が撃墜され、その飛行士の遺体が本庄村海岸に漂着した。その飛行士が持っていた資料により攻撃目標・予定日などがわかったのである。それで、事前に川西航空機は建造中の飛行艇や、原材料を疎開させていた。そして、終戦後この疎開させていたジュラルミン100トンが、元町商店街の復興資材として役立つことなった。(元町ジュラルミン街)
(4)6月5日午前6時過ぎ、空襲警報発令。7時半、神戸市上空に最初の20数機の編隊来襲、焼夷弾投下。その後大編隊が来襲、日本側の記録では、約350機のB29が西は垂水区から東は西宮までの広範囲に大量の焼夷弾・破砕弾・通常爆弾を投下し、市街地全体に壊滅的な被害を受けた。この空襲は工業地帯の爆撃だけでなく、市民生活の徹底的破壊を目的とした、無差別・無限定なものであった。須磨区は、沿岸部の衣掛町、磯馴町から北に大田町まで、生田区は北野町、山本通から南の海岸通までと、諏訪山下から南に花隈町までの地域が被害を受け3月17日の被害を合わせると、ほぼ全域が焼失した。葺合区も3月17日の被害と合わせるとほぼ全域が焼失。灘区は、阪急沿線以南、石屋川以西は、ほぼ全焼し、阪急沿線以北の青谷町、宮山町、五毛通、薬師通、国玉通、赤坂通、上野通は全焼。東部では、御影町・住吉村・魚崎町・本山村・本庄村・芦屋・西宮、西部では、明石郡伊川谷村まで焼夷弾が投下された。この空襲で、須磨区役所・長田区役所・生田区役所が焼失し、これですべての区役所が焼失した。市長公舎、鉄道省鷹取工場、灘の酒造地帯、生田神社も炎上した。この時点で、神戸市街地面積の6割が破壊され、工場地帯・住宅密集地においては、ほとんど全焼全壊か半焼半壊の被害を受け、市民生活は崩壊し工業生産能力は、回復不可能の状態になっていた。 アメリカ軍の資料によると、これまでの攻撃の結果から、神戸市の市街地は壊滅したとの損害判定がつき、神戸は以後焼夷弾の攻撃目標からはずされることとなった。
(5)8月6日午前0時過ぎ、約130機のB29が西宮市を中心にして尼崎市・芦屋市・東部5か町村(魚崎町、御影町、本庄村、本山村・住吉村)・神戸市東部に広範囲に焼夷弾が投下された。
この5回を含む一連の空襲により、現在の神戸市域での、死者は7,524人、負傷者は16,948人、罹災者は約530,000人になる。
神戸市の人口1000人あたりの戦争被害率(死傷者の割合)は47.4人であり、東京42.9人、横浜24.1人を上回り、5大都市(東京・大阪・名古屋・横浜・神戸)のなかで一番大きかった。
昭和20年8月15日、神戸市民は廃墟の中で終戦を迎えた。
- 『新修神戸市史 産業経済編Ⅳ 総論』 神戸市 2014年 836~859頁