革新自治体の誕生、市民運動の活動がみられると、神戸市政にも大きな軌道修正がみられた。このような政策転換の背景には、全国的な反公害運動の高まりがあった。昭和30年代に入って熊本・新潟水俣病、ついで四日市喘息が発生し、以後、続々と発生する被害に触発されて、環境保全を求める市民運動は次第にうねりを増していった。
神戸の公害問題はそれ以前に、東部工場地帯を中心に発生していた。市は、昭和33年(1958)1月に「神戸煙害等公害対策協議会」を発足させた。その結果各企業が工場に集塵装置を完成させ、いわゆる「赤い煙」問題は解決へ一歩前進した。
また、昭和47年(1972)、神戸市は人間環境都市宣言を行い、ついで「神戸市民の環境をまもる条例」を制定し、福祉、消費者保護、ごみ問題を含めた総合的な都市環境の回復をめざした。この環境条例に基づき、住民参加の公害防止協定が既成市街地内の大手企業・中堅企業を対象に続々と締結され、市内の公害は急速に抑制され、環境は改善された。
公害防止をはじめとする環境政策の努力は、水質の面でも成果を生み、須磨の海水浴場は阪神間で残された唯一の海水浴場として、昭和53年(1978)には利用者が130万人まで伸びた。市街地の住吉川に魚が泳ぎ、子供達が水遊びしている風景は、大都会のど真ん中の河川ではほとんど見られなかった風景だった。また、昭和36年の集中豪雨による宅地造成地崩壊を契機に、神戸市は他の自治体とともに強力な実効性のある規制を法律をもって行うよう、国に働きかけ、昭和37年(1962)には、宅地造成に伴う工事について災害の防止のため必要な規制を行う「宅地造成等規制法」が制定された。