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最終更新日:2024年8月19日
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清村容子さん
71年前、6歳だった私は、出生時の障害で手足が不自由なため、何時も母に背負われていました。
あの1945年3月17日、神戸大空襲の日もそうでした。そごう百貨店のすぐ近くだった我が家から、国鉄三ノ宮駅広場に近所の人たちと避難しました。その時、我が家を含む中道商店街の店は次々と壊されていました。これが中道商店街の最後の姿でした。子ども連れは入れてもらえず、母は私を避難場所へ置きに戻り、再び戻りました。私はずっと泣きながら待っていました。母が私の元へ戻り、しばらくして辺りが暗くなり始めたころ、焼夷弾が降り始めました。「みんな、そごう前の地下道へ逃げよう!!」と言われ、一斉にそこへ向かったのですが、もう大混乱でした。特に私を背負った母はみんなの後をやっと追いつき、地下道へどうにか入ることができました。と同時に、焼夷弾が落ち、物凄い勢いで燃え上がりました。私の身体に火がつかなかったのが不思議です。地下道に入れてほっとしたのも束の間、「ここも危ない!!」と言われ、また難儀な脱出です。抜け出すのも最後で、必死に逃げる人混みにやっと追いついたものの、押しつぶされてしまいそうでした。今度は布引の山へ向かって逃げました。火の手は激しさを増し、三宮一帯は真っ赤でした。その光景を私は母の背で茫然と見つめていました。その後、私たちは灘区水道筋にある親戚の家へ行きました。そこで、焼け出された親戚3所帯が暮らすことになりました。市電筋をはさみ南に稗田小学校がありました。そこへは、次々とたくさんの遺体が運びこまれていました。
6月5日、警報が鳴り、いつものように庭に掘った防空壕に入りました。その日は、父と兄が何を思ったのか、防空壕の上に畳を数枚載せていました。その時の爆撃はさらにすさまじく、恐ろしさにみんな震えながら抱き合っていました。爆撃がおさまり、防空壕から出て驚きました。畳の上には、びっしりとガラスの破片が突き刺さり、大きな家は跡形もありませんでした。この空襲で祖父は負傷し、治療もなされず、衰弱死しました。
その後、母と私は小学生の姉二人が縁故疎開している母の実家、千葉へと向かいました。7月7日、千葉市大空襲が待ち受けているとも知らず・・・・。
2019年寄稿