ドイツでは、昭和8年(1933)にヒトラーが政権に就いて以降、ユダヤ人に対する迫害が行われていた。第二次世界大戦の開戦後は、ドイツ国内や占領地のユダヤ人は拘束され、強制収容所に送られた。こうして各地で難民となったユダヤ人にとって、西方から追撃するドイツ軍から逃れるためには、シベリア鉄道を経由して極東に向かうルートしか残されていなかった。
昭和15年(1940)7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃げてきた多くのユダヤ難民が、各国の領事館や大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており、ソ連が各国にリトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、まだ業務を続けていた日本領事館に通過ビザを求めたユダヤ難民が殺到した。
こうした状況の中で、リトアニアの首都カウナスの日本領事代理であった杉原千畝(すぎはらちうね)は、ユダヤ難民に対して日本政府の許可なしに通過ビザを発給した。杉原は、昭和15年(1940)7月末から領事館閉鎖までの約1か月間に、主にポーランド系ユダヤ人の通過ビザを、日本政府・外務省の指示に抗って発給し続けた。このビザにより、大勢のユダヤ難民がヨーロッパからシベリア鉄道でウラジオストクに向かい、船で福井県・敦賀にたどり着いた。彼らの多くは、神戸のユダヤ協会などを頼って鉄道で神戸を目指し、少なくとも5,000名を超えるユダヤ難民が昭和15年(1940)~16年(1941)にかけて神戸に滞在したと考えられる。