明治初期の六甲山地は現在のように全山が緑に覆われた状態からは想像もできないハゲ山で貧弱な植生の山だったため、度々水害を引き起こした。また人口が急増する中、市街地では、生活用水の水質悪化が進み、衛生環境を改善するために上水道の整備が必要となった。その水源として明治33年(1900)に布引貯水池が完成した。しかし大雨のたびに貯水池に泥流が流入するため、神戸市は水源地植林の施工に迫られ、明治35年(1902)に布引貯水池の集水域である再度山付近で植林事業が開始された。この砂防工事が神戸市における砂防植林の始まりであった。そして、2代神戸市長坪野平太郎は、気鋭の造林学者・本多静六博士を招き、樹種選定や造林案の策定を委嘱し、荒廃した六甲山に緑を回復するため計画的・大規模な植林を進めた。
一方で、明治28年(1895)にイギリス人A.H.グルームが六甲山上三国池付近に別荘を建築したことを発端に、六甲山はレクリエーションの場として賑わうことになる。グルームは、外国人居留地の仲間に六甲山住まいを勧め、六甲山は外国人の別荘地となっていった。彼は、明治36年(1903)には日本最初のゴルフ場である「神戸ゴルフ倶楽部」を発足させた。さらには神戸付近の富豪たちの別荘も次々と建てられた。このように別荘地が広がったことにより、六甲山上に定住する人も数多くいたため、山上には明治43年(1910)に六甲山郵便局、大正7年(1918)には六甲山上巡査駐在所が設けられるなど、「街」が形成され始めた。また、この頃の六甲山には天然氷採取のための人工池があった。これはアイススケートのリンクとしても活用され、大正5年(1916)には「六甲氷滑クラブ」が結成された。大正元年(1912)には阪神電鉄が、別荘所有者及び登山者への便宜の供与及び社員のレクリエーション用施設として「阪神クラブ」を開設、大正14年(1925)には阪急電鉄が登山客向けに100名が収容可能な食堂と宿泊施設を持つ「六甲阪急倶楽部」を開設するなど、企業による開発も行われた。大正15年(1926)から昭和9年(1934)にかけては、裏六甲、表六甲、東六甲の3つのドライブウェー、摩耶ケーブル、六甲ケーブル、六甲ロープウェーも開通するなど、国内でも有数のアクセスを誇るリゾート地へと成長した。
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六甲開祖の碑(絵葉書)