最終更新日:2023年2月10日
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平清盛は、福原遷都の際、北区にある丹生山明要寺を京都の比叡山になぞらえて日吉山王権現を勧請しました。そして、福原から丹生山までの参詣道を拓き、月詣りをしたと伝えられています。
この参詣道は「烏原古道」と呼ばれており、清盛が福原の都を起点に山頂まで1丁ごとに丁石を建立したと言われています。現在、参道にある丁石は、後世に建てられたものです。
明要寺は、欽明天皇3年(542)に百済の聖明王の王子が創建したと伝えられています。清盛の保護を受けていた時期は、多数の僧兵と多くの堂塔があり栄えていました。南北朝時代にも、多くの僧兵を備え勢力を持っていましたが、天正7年(1579)に三木城の別所氏に味方をしたため、秀吉に攻められ堂塔は焼かれました。その後、秀吉に許されて復興しましたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、鎮守であった山王社は丹生神社と改称されました。
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