ホーム > 生涯学習 > 神戸市立図書館 > 神戸市立図書館トップページ > 神戸の郷土資料 > 本を通して神戸を知る > 神戸を知る 平清盛と神戸
最終更新日:2024年11月26日
ここから本文です。
平清盛は、大輪田泊(おおわだのとまり)(のちの兵庫港)を修築し、1180年には福原遷都を行った神戸にゆかりの深い人物です。
神戸市兵庫区南部の兵庫津の地域は、平安時代、大輪田泊と呼ばれました。この港は東南からの風波をまともにうけて停泊が危険でした。そのため、朝廷は弘仁3年(812)以来しばしば港の改修を行いました。
福原に別荘を構えていた平清盛は日宋貿易の拠点として大輪田泊を重視し、承安3年(1173)に私財を投じて改修を行いました。泊(とまり)の前面に防波堤となる島を築き、船を風から守ろうとしたのです。この島が経ヶ島(経の島)と呼ばれています。なお、築かれた詳しい場所はわかっていません。(着工年については『平家物語』の延慶本・長門本、『山槐記』等よりの見解です)
清盛は治承4年(1180)には、国家的事業として大輪田泊の大規模な整備を計画しましたが、源平争乱によりほとんど実行されなかったと思われます。
経ヶ島築造は難工事であったため、経石や人柱をモチーフとした説話が生まれました。
『平家物語』巻六に、暴風雨と大波で工事は難航したが、清盛は人柱を入れることは罪深いと考え、代わりに一切経を書いた石を海に沈めたことから「経の嶋」と名付けられた、とあります。
時代を経るにつれ、伝承は脚色され変容していきます。室町期の幸若舞『築島』には、捕らえられた人柱のひとりである国春とそれを助けようとする娘名月女(めいげつにょ)、30人の人柱の身代わりとなってお経と共に海へ沈む松王という少年などが登場します。
また、『福原鬢鏡(ふくはらびんかがみ)』(1680)、『摂陽群談(せつようぐんだん)』(1701)、『摂津名所図会(せっつめいしょずえ)』(1796)、『播州名所巡覧図絵(ばんしゅうめいしょじゅんらんずえ)』(1803)など江戸時代の地誌にも経ヶ島について書かれています。
『摂津名所図会』には、松王小児(松王健児(こんでい)、松王丸ともいわれる)について次のように書かれています。「埋め立てても大波が土石をゆり流してしまう。竜神の怒りをなだめるため30人の人柱と経石を海底におさめよとの占いがでた。平相国(清盛)は生田の森に関をすえて往還の旅人を捕らえさせたが、近隣の村民がこれを歎いて訴えるので兵庫の者はこの難を免れた。今のことわざに『兵庫の者なり御免あれ』というのはこの由縁である。3ヶ月かけて30人をとりこにしたが、親族が群れ来てその悲嘆は尋常ではなかった。清盛はこれを悼んで延期すること5ヶ月に及んだ。そこへ讃州香川城主大井(おおい)民部(みんぶ)の嫡子松王小児17歳が進み出て、身代わりに自分ひとりを沈めるように願い出た。清盛は大いに心を動かされる。ついに、経石と松王小児を海に沈めて島は成った。沈めた所に建てられたのが築島寺(来迎寺)である。(要約)」
兵庫区島上町の来迎寺には、「松王小児入海」の石塔があります。
『西摂大観(せいせつたいかん)』下巻(明治44年)に経島山来迎寺の縁起が載っており、明治期の写真も見ることができます。
『平家物語』には、清盛の遺体は愛宕で火葬にふされ、遺骨は側近の円実法眼(えんじつほうげん)が首にかけて摂津の国に下り、経ヶ島に納めたと書かれています。経ヶ島とは、清盛が大輪田泊(おおわだのとまり)(現在の神戸市兵庫区の兵庫港あたりにあった港)を改修した時に築いた島です。
兵庫区切戸町の十三重石塔「清盛塚」は、墳墓をあらわす「塚」がつくように清盛の墓と伝えられてきました。また、鎌倉幕府の執権・北条貞時が清盛の供養のため建立したという伝承が江戸時代前期より流布していました。
大正12年、「清盛塚」は神戸市電の軌道敷設にともなう道路拡張工事のため、約10メートル北東に移転し現在の地になりました。移転時の調査によって墳墓でないことが確認されています。
十三重石塔には弘安9年2月という年月が刻まれています。西大寺の叡尊(えいそん)が弘安8年(1285)8月14日に兵庫で「石塔供養」に臨んだという記録があり、近年の研究ではこの石塔が「清盛塚」と呼ばれる十三重石塔ではないかといわれています。
一方『吾妻鏡』には、遺言によって遺骨は播磨国山田の法華堂に納められたと書かれています。播磨国山田は、現在の神戸市垂水区西舞子町の山田川付近にあたり、明石海峡を望む景勝の地です。ここは平氏が何度も船から眺めた地であり、平氏にとって海陸の拠点の一つであったと考えられています。
「経ヶ島」か「山田の法華堂」か、皆さんは清盛がどちらの地に眠っていると思いますか。
なお、切戸町の「清盛塚」は地元で大切に供養されています。いつ頃どのようにして十三重石塔が清盛の塚と伝えられるようになったのかにも興味がひかれます。清盛は兵庫の恩人という思いがあったことは確かでしょう。
平清盛は、福原遷都の際、北区にある丹生山明要寺を京都の比叡山になぞらえて日吉山王権現を勧請しました。そして、福原から丹生山までの参詣道を拓き、月詣りをしたと伝えられています。
この参詣道は「烏原古道」と呼ばれており、清盛が福原の都を起点に山頂まで1丁ごとに丁石を建立したと言われています。現在、参道にある丁石は、後世に建てられたものです。
明要寺は、欽明天皇3年(542)に百済の聖明王の王子が創建したと伝えられています。清盛の保護を受けていた時期は、多数の僧兵と多くの堂塔があり栄えていました。南北朝時代にも、多くの僧兵を備え勢力を持っていましたが、天正7年(1579)に三木城の別所氏に味方をしたため、秀吉に攻められ堂塔は焼かれました。その後、秀吉に許されて復興しましたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、鎮守であった山王社は丹生神社と改称されました。
祇王・祇女は、平家物語に出てくる平清盛が愛した白拍子の姉妹ですが、清盛の寵愛を失い、京都嵯峨野の祇王寺で尼になりました。
その祇王・祇女の塔が、兵庫区にある経島山来迎寺(通称築島寺)にあります。
なぜ、京都で尼になった祇王・祇女の塔が、神戸にあるのでしょうか。『来迎寺々記』によると、「京の嵯峨野に庵を結びて隠れしも津の國福原は平相國に最も縁故深き処なれば、此地に罷下り兵庫なる眞福寺に住持し、平家一門を弔ひしといふ」とあり、眞福寺について『摂津名所図会』を見てみると、「白拍子祇王・祇女暫くここに住みて、平家一門の菩提を弔ひ給ひしとなり」とあります。
なお、来迎寺は、清盛が経ヶ島を築造する時に、人柱となった松王丸の菩提を弔うために建立されたとされており、境内には松王丸の供養塔もあります。