六甲山地の荒廃は、すでに江戸時代にかなり進んでいた。江戸時代だけでも神戸市域で四十数回の洪水、水や砂の田畑への流入などの水害が記録されている。また、幕末から明治初期にかけて、近畿地方を中心に荒廃が進行し、大雨ごとに土砂流による被害が発生していた。明治初期の六甲山が現在のように緑に覆われた状況からは想像できないハゲ山であったことがうかがえる記録が残っている。明治14年(1881)、植物学者の牧野富太郎は「私は瀬戸内海の海上から六甲山の禿山を見てびっくりした。はじめは雪が積もっているのかと思った。」と回想している。また、明治16年(1883)には、政府から派遣され、兵庫県を視察した地方巡察使の槇村正直が「六甲山地から土砂が流出し山は骨と皮だけになっており、その骨と皮も崩れつつある。」と報告している。明治25年(1892)、兵庫県下の広い範囲で発生した水害を機に、兵庫県は、山地の荒廃によって生ずる土砂災害を予防するため、水源山地の植林、崩れた斜面の改修、流出する土砂を止めるダム建設などの防災工事に着手した。六甲山地ではもっとも裸地化の進んでいた東六甲の逆瀬川上流で施工された。明治29年(1896)、神戸市は六甲山地からの大規模な土砂流による水害を受け、湊川が決壊し、死者44名、流失・倒壊家屋160戸の被害を被った。明治29年(1896)に河川法、明治30年(1897)に砂防法、森林法が定められ、荒廃する国土の保全に対する基本的な考えが確立された。砂防法の指定を受けた地域では、開墾や伐採、土石の採掘などは禁止、または制限され、知事の許可が必要となった。こうした中、布引貯水池への土砂の流入を防止するため、神戸市は水源地植林の施工に迫られ、明治35年(1902)に貯水池の集水域である再度山付近で植林事業が開始された。この砂防工事が神戸市における砂防植林の始まりであった。そして第2代神戸市長坪野平太郎は、気鋭の造林学者本多静六博士を招き、樹種選定や造林案の策定を委嘱し、計画的・大規模な植林を進めた。この砂防植林は、ハゲ山に緑を蘇らせた環境保全の成功例として中学校の教科書などにしばしば掲載されている。
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塩ヶ原(現在の修法ヶ原)一帯で行われた植林工事