最終更新日:2019年12月27日
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その昔、今の兵庫港のあたりは、六甲連山によって北西の季節風が遮られ、和田岬によって西からの波浪が防がれ、さらに水深と投錨に適した海底の砂に恵まれて天然の良港が形作られていました。奈良時代の昔より、瀬戸内海の交通の要衝として、また、外交の窓口として歴史に名をとどめています。
平安末期には、その港に目を付けた平清盛によって港が改修され、日宋貿易の拠点となり、福原には一時都もおかれ、我が国の政治の中心地ともなりました。そして幕末、兵庫港の開港を諸外国より求められた幕府は、あえて当時人口希薄な、東隣の一漁村神戸を開港し、現在の神戸のモダニズム発展へとつながっていきます。
室町時代以降、区内南部の「兵庫津」を中心に、豪商が建ち並び海運の要所としてのみならず、一大経済都市として再度歴史に登場します。司馬遼太郎著「菜の花の沖」でも有名な、高田屋嘉兵衛がエトロフ航路を開き、兵庫津は北海道物産交易の基地として大いに賑わいました。
1868年、明治新政府は地方を「府県藩」に分けます。このとき「兵庫県」が置かれ、伊藤博文が初代知事となり、区内切戸町の兵庫城に県庁が置かれました。以後、1871年の廃藩置県などを経て、兵庫県は現在のような形へと移行していきます。
明治初期、和田岬沖を迂回する船が、しばしば波浪の難に遭うため、兵庫港から直接西方に抜ける運河が建設されました。新川運河と兵庫運河は、いまなお、現役として活躍を続けています。運河のまちといえば北海道の小樽市などが有名ですが、日本最大の運河が、ここ兵庫区にあることはあまり知られていません。
大正から昭和に入り、兵庫区には三菱重工、川崎重工などの大企業が次々と進出し、労働者のまちとして大いに賑わいました。そして湊川の河川掛け替え工事により登場した「新開地」には、「ええとこ、ええとこ..」とうたわれた「聚楽館」をはじめ、数々の映画館、演芸場、寄席などが建ち並び、「東の浅草、西の新開地」と呼ばれるまでに至り、戦前戦後の大衆芸能、大衆文化の発信拠点として、その中心的役割を果たしました。
ひと、まち、みなと..。その間に歴史が息づいてきた、古き良きまち並み。兵庫区は、現在の神戸を語るうえで、欠かせぬ歴史を秘めたまちといえるでしょう。