最終更新日:2024年11月8日
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『夢野』の地名はかつてこの地に住んでいた雄鹿の夢が起源という。自らの背に雪が積もりススキが生える夢を見た雄鹿は、妻の雌鹿にそのことを話した。妻はススキは矢、雪は塩だと夢判断して、「きっと悪い知らせだから外に出てはいけない」といさめた。しかし、雄鹿は淡路島にいる恋人のところへ行こうと、海に入り泳いだ。雄鹿は海上で漁師に射殺された。この伝説から『夢野』の名が付いたとされる。
三石神社は、神功皇后が遠征の帰路、和田岬の田に3個の石を置いて神占し『広田』『生田』『長田』『住吉』の四神を祀った地だとも、また3個の石で安産を祈った場所ともいわれている。西宮えびす神社の祭で渡御したみこしを置く石が3個だったという説や、灯台の代わりに設けた和田岬灯籠の礎石跡だという伝説もある。
日本書紀・仁徳天皇62年の項によると、天皇の異母兄・額田大仲彦(ぬかたおおなかひこ)は夢野で狩りの途中、野中に穴倉を見つけた。この地の豪族闘鶏稲置(つげのいなぎ)大山主に尋ねると、「地下に枯れ草を敷いて池の氷を夏まで貯蔵している」と答えた。そこでこの氷室の氷を天皇に献上したところたいそう喜ばれたという。氷室跡に仁徳天皇を祀って氷室神社が創建されたという。
万治元(1658)年の武庫川の氾濫によって、武庫郡小松村にあった『岡田宮』のご神体が和田岬まで流れて漂着したので、古来からこの地にあった『えびす社』『弁天社』と合わせて祀ったのが和田神社の起こりだと伝える。
兵庫津の西の出入口のあたりには、大きな柳の木があったので柳原と呼ばれていた。伝説によれば、その柳の木の下に住んでいた木下源太兵衛という貧しい夫婦が、不思議な僧に宿を貸したことから、味噌長者となり、仏さまに感謝して門口町にある福厳寺を建てたという。
天平宝字8(764)年、北区の山田の里から都につとめに出ていた山田左衛門尉真勝は、恋がれていた白滝姫と夫婦になって山田に帰ることになった。その途中、石井村の北の森で休憩をした。時節は梅雨時ながら日照り続きで村人が困っていた。姫が手にした杖で地面を突くと清水が湧き出した。清水の面に栗の花がはらはらと落ちたことから、ここを栗花の森(つゆのもり)と呼んだという。都由乃(つゆの)町の地名のもとになった伝説である。
法然上人の弟子・住蓮は妻の安楽とともに上野(のちの烏原)の古寺を再興し、願成寺と名づけた。建永元(1206)年、後鳥羽上皇の愛妾であった松虫・鈴虫が住蓮に心酔して仏門に入ったことで、住蓮夫婦は上皇の怒りにふれて近江の国で処刑されてしまった。この時、烏が住蓮の首をくわえて近江から上野まで持ち帰ったことから、寺があった上野村を烏原村と呼ぶようになったという。貯水池の建設で烏原村は水没し、寺は現在地に移された。
旧石井村の人のよい老夫婦のもとにある日、ひとりの娘が訪れて多彩な品を置いて去っていった。不思議に思ってひそかに後をつけたところ、娘は北の『千鳥が滝』に姿を消した。娘は竜神の化身で、感心な夫婦に褒美を与えたのだという。「深山かと思ひ来ぬればさはあらで 千鳥が滝に潮ぞみち来る」という古歌にも歌われている。滝の名は、流れに曲折が多く「千鳥がけに流れる」ところから来たという説があり。
奈良時代の名僧・行基が開いたと伝える地蔵院本尊の地蔵菩薩は、行基が爪で彫ったと伝えられている。明治時代に記された『西摂大観』によれば「世間凶事あらんとすれば、尊像先ず汗に漬る、故に汗かきの名ありとぞ」とあり、また思い病気にかかった人がお祈りすれば、汗をかき身がわりになって治してくださるという。
矢部町の地蔵堂前には、直径2mにも及ぶ松の巨木がそびえていた。地面から盛り上がった根は旅人が休憩する腰かけとして、またそびえたつ姿は格好の道標となり、『平野の一本松』『枝折(しおり)の松』などと呼ばれていた。今は枯れてしまい、巨大な根珠だけが当時の様子をしのばせる。
平野祇園神社の祭神は牛頭天王(ごずてんのう=スサノオノミコト)である。『牛頭天王由来記』によると、貞観11(869)年にここの神様を播州広峰から京都の白川へ移すおり、ここでみこしが一泊されたので、それを記念して社を建てたのが始まりだという。
応神天皇の息子・大山守命は、父にそむいてひそかに皇位をうかがっていた。夢野の鶏塚は、大山守命が鶏を闘わせ、企ての成否を占った地とされる。思うような結果が出ないことに立腹して命が鶏を殺して埋めた跡が『鶏塚』で、一帯を『鶏鳴が谷』と呼び、鶏が闘ったところは『闘鶏野(とがの)』と呼ぶようになったという。
長福寺の行暮地蔵は、もとは鵯越道の登り口にあたる四つ辻に祀られていた。鵯越道は兵庫から藍那を通って六甲山地の北、山田方面へ通じる山道で、この行暮地蔵は、鵯越道を行く旅人が旅の安全を祈り、目じるしとされていた。
山田町の藍那付近から米や薪を荷車に積み、帰りには海産物を積んで運ぶ人が、鵯越道を登る登り口がこの追分地蔵。夢野からの鵯越道と、石井からの烏原道との分岐点に立っていたため、『追分地蔵』と呼ぶようになったという。
平野の一本松から西北へ、いまの祇園神社の参道へ出る手前の上祇園町に『塞神(さえのかみ)の松』があった。この松と、天王川を西へ越えた都由乃町の栗花の森をたどるのが山手の旧道である。昭和16年、松があった場所に上祇園町内会が立てた『塞神の松跡』は、平成11年に現在の『塞神の松広場』に移された。
海を渡って遠征する神功皇后が摂津の和田野原に泊まったとき、夢枕に聖者が現れて安産のお告げをした。お告げどおり皇后は無事に応神天皇を出産。聖者の現れた地にお寺を建てたのが金福寺の起源といわれている。
御崎本町にある御崎八幡神社には『応神天』『姫大神』そして『神功皇后』が祀られている。社記によれば貞観年中(859~76)に、大昔にここに神功皇后が立ち寄ったという神様のお告げによって建てられたとされている。
五宮神社は旧奥平野村の氏神で、生田神社八社のうちの『五の宮』。祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)で、明治5年に湊川神社が創建された時、この村は県から湊川神社の氏子に指定されたが、村人が「旧来のままにしてほしい」と嘆願して、従来のままになった。
湊川公園の大楠公(楠木正成)像の東北には『聖徳太子銅像』が立っていた。兵庫区に太子像がある由来は、宇奈五岳(うなごがおか、現在の会下山)が、太子が建設した法隆寺の領地だったためだが、残念ながら震災で壊れ馬像のみとなっている。
※湊川公園のリニューアル工事に伴い、聖徳太子の馬の銅像は、公園内の区役所西側に移設された。
五宮町の民家の敷地内に、『歯神さん』と呼ばれる大きな五輪塔が2基ある。南北朝ごろの高さ1m足らずの石塔。かつては奉納してある箸を1膳借りて歯痛全快を祈り、全治すると箸を2膳にして返す習わしがあった。
大山咋(おおやまくい)神社は石井川上流の石井橋北東、山王町にある。いまは住宅地だが昔は山あいの土地であり、祭神の大山咋命は山をつかさどる神様。通称「山王さん」と呼ばれ、町名の由来にもなっている。
『柳原天神社社伝』によると、昌泰4(901)年に菅原道真が筑紫に左遷される途中、暴風雨を避けて和田岬に滞在した。そのゆかりの地に、大宰府の安楽寺廟所から道真の分霊を受けて祀ったのが社の起源だという。
会下山の北、浄水場がある頓田山にあった二本松古墳に伝わる『宝塚』伝説。多くの宝物や金銀とともに身分の高い人が葬られた塚で「夢野の村が衰えて家が三軒になるようなことがあれば、この宝物を掘り起こして村を復興せよ」と遺言したという。一説によると、二本松古墳は法隆寺の経塚(きょうづか)であるともいう。