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最終更新日:2020年6月3日
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-神戸ふるさと文庫だより-
布引の滝
『DIE DEUTSCHEN IN KOBE』(神戸のドイツ人)の寄贈を受けた。著者のオットー・レファートは貿易商で、明治元年にできたドイツ人クラブのリーダーを務めた人物である。
異郷にあって言葉や習慣を同じくする人々の集まりは、ときに遭遇する困難や寂しさを励まし慰める。楽しいピクニックやパーティーに時間のたつのも忘れる。万事気取った横浜では神戸の外国人を「神戸の田舎者」と呼んだが、それをむしろ得意がっていた茶目っ気たっぷりの若者たち。国を越えて芽生えた友情にも本国での政治状況が微妙に翳を落とす。
神戸をこよなく愛した著者は、居留地の歴史と日々の暮らしを実務家らしく簡潔に点綴している。
このたび資料を提供してくださった令息ヴォルター・レファート氏は、遠い少年の日の想い出をまるで昨日のことのように話された。「この頃三宮へタクシーで行くけれど江戸町や伊藤町を知らない運転手が多いね」とちょっと寂しそうな表情は、古き良き神戸を愛する神戸っ子のものであった。
林同春(エピック)
林さんは、中国福建省生まれ。昭和十年九歳の時に、先に来日していた父親のいる丹後半島に渡る。戦後神戸に移り、高架下にて繊維商を営み、世界中に散らばる華僑のネットワークを頼りに服地輸入を手がけ成功する。
現在は数々の事業の他、神戸中華同文学校名誉理事や神戸中華総商会会長を務めるなど、有力華僑の一人である。
本書は、神戸華僑の大まかな歴史に触れながら、林さんの戦時中の体験を中心に書かれたものである。
戦争中は敵国人としてつらい思いをし、その後は国交なき国の外国人として不幸な時代を送ってきた林さんの、中日友好と平和に対する熱い思いが伝わってくる。
福田基(白燕発行所)
和田悟朗氏は、東灘区御影生まれの俳人。冷徹なまなざしで人間を客観的に捉える作風で、「現代俳句協会賞」など多くの賞を受賞している。
著者の福田氏は、昭和四十年頃、和田氏と出会い、その作品に魅せられ、後年には、和田氏主宰の「白燕」同人となる。
その著者が本書に記したのは、作家論でも批評でもない。和田氏の俳句に触れ、彼の神髄に迫ろうともがいてきた著者自身の心の軌跡と言えるものである。
福田基(白燕発行所)
精神科医である著者の第三エッセイ集。アリアドネとは、ギリシア神話に登場するクレタ島の王ミノスの娘の名。英雄テセウスが、迷宮に住む怪物を退治する際、帰りの道に迷わないよう糸を手渡す。アリアドネから糸を渡された著者は、いじめや震災、色や記憶、ヴァレリーの詩など、多方面にわたって謎を解いていく。
(淡交社)
今秋、地域と時代を限定したテーマで四つの地元美術館が同時開催するという画期的な企画が実現した。兵庫県立近代美術館-「美術家の挑戦」、西宮市大谷記念美術館-「新時代の娯楽」、芦屋市立美術博物館-「健康地のライフスタイル」、芦屋市谷崎潤一郎記念館-「ハイカラ趣味と女性文化」、という内容である。
本書は単なる展覧会図録にはとどまらず、阪神間という地域の成立過程を宅地開発、建築、芸術や文学など、さまざまな角度から論証しようとするものである。阪神間が白砂青松の地として、健康を求めて人びとが集まったリゾートシティであったことなど、新発見も数多い。
島京子(編集工房ノア)
神戸出身・在住の作家によるエッセイ集の最新刊である。
他家の庭に咲く花を楽しみながらの散歩の話。中国からの留学生と花の名前や愛で方の違いを話しあう様子。花をきっかけによみがえってくる幼い頃の記憶など。花にまつわるさまざまなエピソードが親しみやすい文章で綴られ、花好きの読者はゆったりとその世界に遊ぶことができる。
震災復興調査研究委員会編(21世紀ひょうご創造協会)
本書は震災後発行された、膨大な記録の集大成である。ここには震災発生時から翌八年三月末までをおさめるが、今後十年にわたり、年一冊の刊行を予定している。生活、文化、住宅、福祉、保険・医療、教育、産業・雇用、都市計画・まちづくり・都市インフラ、防災の各方面から、各機関の発行した記録をもとに、震災下の状況や復興状況、課題が詳しく述べられている。
谺健二(東京創元社)
一九九五年一月一七日未明、マグニチュード七を超える地震が神戸を直撃し、わずか二十数秒間の揺れが六千人もの命を奪った。
そして地震と前後して起こった殺人。私立探偵有希は友人の占師圭子とともに事件に挑む。不可解な状況で起きた四件の殺人は連続殺人か。家や知人を失い傷つきながらも事件を追う二人。有希の推理は謎を解き明かしたかのように見えたが…。
震災当時の街のすがた、人々の生活、心の揺れ。登場人物をとおしてあの時が追体験される。謎解きの痛快さもさることながら、神戸に住む著者の実感が伝わり作品に厚みが増す。第八回鮎川哲也賞受賞作である。
(祥福寺専門道場)
祥福寺は、兵庫区五宮町にある臨済宗妙心寺派の道場。震災時には、山門が倒壊するほどの被害を受けたが、これも禅修行の一環と、すぐに炊き出しを中心とする多岐にわたるボランティア活動を始める。本書は、修行僧たちによる二年間の震災活動記録である。彼らの肉声とともに、その活動の背後に、宗派を超えた多くの支援があったことがわかる。
谷恒生(小学館)
朝鮮戦争が勃発した年の秋、元海軍将校の不動征四郎は、神戸にやってきた。終戦直後神戸で助けた孤児ジュンからの手紙に呼び寄せられたのだ。が、待ち合わせのメリケン波止場で、彼女は何者かに殺されてしまう。ジュンの仇を追う不動は、やがて、事件と旧陸軍の大物戦犯を追うGHQとの関わりを知る。
特需に沸く神戸港を舞台に、人々の野望と占領国の悲哀、未だ消えぬ戦争の影がせめぎあう。
藤井勇三(小学館)
著者は元高等学校の歴史・地理の教諭。現役時、まず自分で資料を下調べしてから、実際にカメラを片手に神戸市内の遺跡や史跡を巡り、それをプリントにまとめて生徒たちに配布していた。教え子たちが郷土・神戸を知ると同時に関心を抱くきっかけになればと願ってのことで、本書はそのプリントをまとめた小冊子に加筆、訂正を行って新たに発行した労作である。
平安時代の福原京の中心地はどこ?と探ったものや、江戸時代の兵庫の町のなごりを追って歩いたものなど、古代から現代までさまざまな方向から神戸の歴史を紹介してくれる。
秋も深まり六甲山は紅葉、黄葉が色鮮やかに映えています。新幹線の新神戸駅の裏手にある登山道を登ると十数分で布引の滝にたどりつくことができます。そこは都会の喧噪が間近にあることが信じられないような渓谷の趣をとどめており、春は新緑、夏は涼しさ、秋は紅葉と四季折々に行楽と登山の人々に親しまれてきました。
布引の滝とは、上流から下流へ雄滝、夫婦滝、鼓滝、雌滝と名付けられた渓流の総称です。渓流沿いには樫やシダなど太古からの植生がそのままに残っており、六甲山の自然を知ることのできる貴重な場所にもなっています。
滝は、現在では上流の布引貯水池のダムによって水の放流が管理されており、深刻な渇水時には放流が止められることもあるようですが、普段はみごとな滝の姿を楽しむことができます。
布引の滝は古来より名勝の地として広く知られてきました。布引の滝にまつわる史実・伝説に詳しい『布引瀧と周辺史蹟―葺合文化の源泉―』太田三著によると、平安・鎌倉の時代から多くの来訪者があったことが紹介されています。その一つ『源平盛衰記』の挿話は次のようなものです。
内大臣平重盛はお供を連れ滝見物にやってきました。滝壷の深さを知りたいと思った重盛卿は「此の中に誰か剛者の然も水練ある者を」と尋ねます。すると備前国住人難波六郎経俊が進み出て「滝壷に入りて見て参らむ」と飛び込みます。するとそこには不思議な世界が広がっていました。見渡すと東には春の景色、南には夏の、西には秋の、北には冬のと四季の景色が展開していたのです。経俊は機織りの女性からそこが竜宮城であることを知らされます。やがて乙姫に面会したのち、経俊は水上に浮かび上がり仔細を重盛卿に報告します。ところが、その言葉がまだ終わらないうちに、滝の面を黒雲が覆い、雷鳴がとどろき大雨となり、経俊は雷に打たれて死んでしまいます。重盛卿はこのような勇者を滝壷に入らせ、竜宮のたたりに遭わせた不覚を悔いたのでした。
布引の滝はまた、古来より多く歌に詠まれた歌枕としても有名な地名で、歌合せ・百首歌・屏風歌など風雅な遊びの中でもたびたび題材として詠まれています。
明治初年、花園社という布引の滝を中心に付近の開発を行った会社があり、滝の名歌三十六首を選んで歌碑を建てたのですが、時とともに一帯の観光施設は衰退してしまいます。その後昭和九年、神戸市が布引渓谷の整備を計画し、前出の太田三氏の提唱によってあらたに歌碑が建てられました。
新神戸駅の裏からすぐに山へ登る道となりますが、その一番手前に藤原定家の歌碑「布引の滝の白糸夏来れば絶えずぞ人の山路たづぬる」があります。続いて渓流にかかる砂子橋の両端、布引公園、雌滝と随所に歌碑が建っていますが、紅葉に見とれているとつい見過ごしてしまいます。上流の雄滝(高さ四十三メートル)の露台には在原行平・業平兄弟の歌碑二基があり、さらに滝を見下ろせる茶店まで歌碑は合せて二十数基です。
昔にくらべ、訪れる観光客の数は減ったようにも思われますが、秋晴れの一日、布引渓谷は登山や滝見物の人達で賑わっていました。