ホーム > 生涯学習 > 神戸市立図書館 > 神戸市立図書館トップページ > 神戸の郷土資料 > KOBEの本棚-神戸ふるさと文庫だより- > バックナンバー(19号~60号)KOBEの本棚 > KOBEの本棚 第57号
最終更新日:2023年7月27日
ここから本文です。
-神戸ふるさと文庫だより-
『英三番館(第八作)』小松益喜
ルミナリエは、阪神・淡路大震災の起きた平成7年に初めて開催されました。傷跡の残る街の中、12月の寒い夜空を背景にして降り注ぐ光のシャワー。複雑な気持ちを胸に見上げる人々…。
「Illuminazione Per Festa」(祝祭のためのイルミネーション)がこのことばの語源だそうで、ヨーロッパルネッサンス時代の、ろうそくの光を用いた祝祭芸術が始まりだと言われています。
使用される電球は、公式記録によると15万(第1回)、22万(第2回)、28万(第3回)。発色形態が異なるため、日本製の電球は使えません。ひとつずつ手作業で染色されたイタリア製が用いられ、その技法は企業秘密だとか。耐久時間が短いため、開催期間中は足場も組まずに、切れた電球の付け替え作業が行われます。
震災から12年。すっかりきれいになった街に、カップルや家族連れ、観光客が訪れる年末の風物詩―平和への感謝、鎮魂、祈り…様々な想いを包み込む光が、今年も神戸に輝きます。
伊井春樹(角川学芸出版)
ゴードン・スミスは大英博物館の標本採集員として明治31年に来日し、17年間という歳月の大半を神戸で過ごした。
現存する彼の日記は、大半が狩猟、瀬戸内海の新種魚類の採集、絵師に書かせた魚の図など、日本での日常生活の記録であるが、本書は中でも、日露戦争前後の社会情勢や日本人気質、スミスの社会活動に焦点を当てている。
戦勝祈願に岩清水八幡宮を訪れる幾千の群衆や戦地に赴く兵士の集団に、秩序や規律正しさを見て感動し、日本人に対する尊敬の念を持つに至ったスミスは、今も神戸の外国人墓地に眠っている。
品川鈴子著・発行
著者が自分の名前と同じ「鈴」を集め始めたのは、親元を離れて神戸で寂しい寮生活を送っていた時。京都の清水で買い求めた土鈴がきっかけとなった。以来60年あまり、世界中から集めた鈴の数は五千個以上にもなる。
神戸新聞に連載のあと、著者創刊の俳誌『ぐろっけ』(ドイツ語で「大きな鈴」のこと)に書き綴ったエピソードをまとめたもので、それぞれの鈴への思いが感じられる。夢は「鈴の博物館」を造ることだそうだ。
渡辺美輪 徳道かづみ(神戸新聞総合出版センター)
本書は今年3月に亡くなった時実新子さんに捧げられている。時実さんの『川柳大学』を通じて知り合った著者二人は、会えば飲み歩き、朝まで語り合い、本書を生んだ。一つのお題に対し、各自が句とエッセイを出し合う形式で神戸新聞に連載され、パステルと原色の違いがあるという二人の個性が浮き彫りになる。川柳への熱い気持ちが、まさに「タッグ」で伝わってくる1冊。
神戸学検定公式テキスト編集委員会編(神戸新聞総合出版センター)
その土地の歴史や文化、名物などの知識を問う「ご当地検定」が流行っているなか、「神戸学検定」が今秋、登場した。その公式テキストである本書は、「くらし・文化」「歴史」「経済・産業」「阪神・淡路大震災」「自然」「観光・まち」の6章で構成されており、栄枯盛衰を体験した神戸を系統的に知ることができる。また、「日本一短い国道174号線」といったコラムなどもあり、すみずみまで神戸を網羅している。
読後、見慣れた街並みのなかに今までとは違った景色を見つけることができそう。
兵庫県生物学会編集・発行
年月とともに移り変わっていく自然。その姿を、本書は新旧の写真を対比させ、確かめようとする。
自然の変化には災害によるもの、宅地の造成や河川の改修、目に見えない空気の汚染など、様々な原因がある。例えば六甲山は、明治の末頃までは薪を取られたはげ山で、植林により緑がよみがえったものの、震災で再び被害を受けた。
貴重な比較写真を、今後の保護や学習に役立ててもらいたい。
宮内ゆかり(文芸社)
車イスで岩山でも階段でも上り下りしてしまう「超パワフルな」夫と、夫と出会うまで車イスとは無縁だった妻。その妻の視点から日常を綴ったユーモアたっぷりのエッセイ。
開発した車イス専用手作り抱っこヒモや二人で自宅のリフォームの作業をしている様子の写真などもあり、「楽しいことは自分でいくらでも作り出せるのだ」というメッセージにあふれている。
流通科学研究会(千倉書房)
西区にある流通科学大学商学部の7人の教員が執筆した、流通関連の入門科目テキスト。「わからせるテキストではなく、感じさせるテキスト」を目指し、教員が撮影したイメージ写真を多用。各章冒頭に「伊藤家」なる家族を登場させ、本編へと柔らかく導く。「これが教科書?」と驚くが、読後には流通への興味が少なからずかき立てられる、ユニークな入門書である。
神戸新聞総合出版センター編集・発行
山陽電車の前身、兵庫電気軌道が設立されたのは明治40年。この本は、全駅と沿線の1世紀を、古い写真で振り返ったものである。
今は無き兵庫駅の路面停留所、車に混じって道路を走る電車、大正の明石公園開園日の様子など、貴重な写真が載っている。また、赤ん坊を背負って割烹着姿で出迎える母親、踏切を渡る学生たち、沿線の穏やかな海水浴場など、ごく普通の日常風景が懐かしく、当時の暮らしがうかがわれる。
澤田省三(児童文化研究所)
昭和23年、焼け野原の残る大阪に、雑誌『きりん』は誕生した。井上靖と神戸の詩人竹中郁の編集で始まり、昭和46年、通巻220号まで続いた。全国から集めた子どもの詩と作文を載せ、選評を加えるという内容である。
著者は小学生の頃、作品を『きりん』に応募しつつ、竹中が行う「子ども詩の会」にも通っており、教師となってからは、子どもたちを連れて会に参加していた。本書では、『きりん』に掲載された子どもの詩が随所に紹介されている。編集者たちが、大人の枠組みに当てはめず大きく見守りながら、思う存分言葉によって飛び跳ねることのできる広場を守り抜いてきたことを、著者は伝えている。
海上から神戸の街を鳥瞰したこの観光マップは、昭和5年(1930)、観艦式と海港博覧会の開催を記念して発行されました。
この図を描いた吉田初三郎は、位置や距離をデフォルメする独自の手法で全国各地約2000点もの観光地図や広告地図を描き、「大正の広重」と呼ばれました。本図もその手法により、中心の神戸から、東は東京や樺太、西は九州や朝鮮半島までが、1枚に収められています。
初三郎はこの図によせて、開港後の神戸を「異常とも想外とも言ふべきスピーディーな發展に驚異の目を瞠らざるを得ない」と言っています。布引の滝などの観光名所とともに、艦船や鉄道、ホテルなど、市内のあちこちで西洋文化が花開いている様が見て取れます。また、英文が併記されているのも国際都市神戸ならでは。実際の位置関係とは若干異なるものの、昭和初期の賑わいが存分に味わえます。
居留地西町にあった、英三番館。そこは、西洋人向けの薬や雑貨を商うトンプソン商会でした。当時の居留地界隈でも珍しい壁看板が独特の情趣を醸していたのでしょう。川西英の版画『神戸百景』や、中山岩太の写真にも残るこの建物に小松益喜もまた心引かれ、八年間にわたって何度も繰り返し描いています。
後に“異人館の画家”と呼ばれる小松益喜は、明治37年に高知県に生まれました。高知市立工業学校(現高知県立工業高校)在学中に絵を描き始め、21歳で東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科に入学。卒業後も東京で創作を続けましたが、左翼活動に没頭して過労に倒れ、一時期記憶を失います。約2年間、郷里で静養。その後再び中央画壇を志して東京へ戻る途中、立ち寄った神戸の街並みに魅了され、そのまま暮らし始めます。以後、戦争中の数年を除いた約60年間、北野や旧居留地の風景を描き続けました。
小松の神戸での生活は、経済的な苦労とともに始まりました。家を借りても家賃を1年分滞納。ガス代を払えず止められたこともあったそうです。とき夫人は内職をして家計を助けました。後に夫人は当時を回想して「絵具拭きにせよとたまわりし浴衣着て子らとさざめく夕涼みなりき」と詠んでいますが、この歌からは、貧しいながらも小松の画業の傍らに常にあった家族の生活が感じられます。この家族とともに、彼の画家生活を支えたのは、美術学校時代の先輩でもあった小磯良平を始めとする仲間たちでした。
山本通にあった小磯良平のアトリエには、その頃多くの画家たちが集っていました。小松もまた、周辺の異人館を描くのに好都合なことから、頻繁に訪れました。温厚な小磯の配慮もあり、小松はたびたび小磯の絵のモデルを務めることで生活の糧を得ていたといいます。そしてここを拠点として、北野や旧居留地に出かけては絵を描く日々を送っていました。
当時のエピソードを、元県立近代美術館の森田修一が、桝井一夫からの聞き書きとして『歴史と神戸(229号)』に紹介しています。小磯のある絵の完成祝賀会が開かれた時のこと。世更けての深酒に悪酔いした小松は「あのくらいのヨロイ窓の影が描けんでどうする…」とつぶやき、突然「この下手くそ絵描きめがっ!」と怒鳴って、手近にあった飼い葉桶を自分の頭にぶつけました。そしてそのままのびて寝てしまいましたが、翌朝は誰よりも早く起きて写生に出て行ったそうです。
その頃、小松は英三番館を熱心に描いていました。学生時代にユトリロに感銘を受けて以来、画中に漂う詩情を絵の真髄と捉えてきた彼は、細部を精魂こめて描くことがそれを生み出すと考えていました。このエピソードからは、扉の一枚一枚や、煉瓦のひとつひとつといった細部への強いこだわりが、奔放な人柄とともに伝わってきます。
小松は自転車で写生に出かけました。荷台には50号くらいの大きなキャンバスを乗せるための鉄製の画架を取り付け、その上に平らに絵具箱を置けるよう工夫を施していました。時には絵具のチューブが破れて手や服を汚しましたが、小松は構わずこの自転車を使い続けました。そうして街を走り回っては、その一角に腰を据え、異人館を一軒一軒、丹念に描きとめたのです。
昭和26年秋、神戸市立図書館で催された「美術の味わい方」という講演会で、小松は次のように話しています。「画家が感激して描いたか否か、理屈よりも絵に感激があるかどうかを読み取ることが大切」。これはもちろん彼自身の、絵を描く姿勢にも通じるものでしょう。
かつて神戸の街並みに魅せられ、その詩情をキャンバスに表現することに心血を注いだ小松。愛用の自転車は、代表作のひとつとなった第8作目の『英三番館』の中に、その姿を留めています。
「わが心の自叙伝 小松益喜」神戸新聞 昭和61年10月~62年1月連載 ほか