ホーム > 生涯学習 > 神戸市立図書館 > 神戸市立図書館トップページ > 神戸の郷土資料 > KOBEの本棚-神戸ふるさと文庫だより- > バックナンバー(19号~60号)KOBEの本棚 > KOBEの本棚 第58号
最終更新日:2023年7月27日
ここから本文です。
-神戸ふるさと文庫だより-
須磨寺本堂と「須磨紀行」碑
平成3年5月、新潟県の糸魚川市(いといがわ)歴史民族資料館で、幻の書といわれた「須磨紀行」が発見されました。
「須磨紀行」は、江戸後期の禅僧良寛の『関西紀行』の一節で、明治26年に翻刻されたまま、原本が行方不明となっていました。
備中玉島(倉敷市)で修行をしていた良寛は、故郷の新潟に帰る途中、関西に立ち寄ります。「須磨紀行」には須磨寺を訪れたこと、宿をとることができず綱敷天満宮の松林で野宿をしたこと、夢の中で高貴な人と出会い一晩中語り明かしたことなどが綴られています。
原本が発見される数年前、須磨寺では、良寛と須磨のつながりを知ってもらおうと「須磨紀行」の石碑を建立しました。その時も原本を探したのですが発見できず、『関西紀行』のほかの部分から直筆文字を拾い、製作したのでした。後日、須磨寺近くの旧家からは別の直筆書が見つかり、良寛と須磨についてはこれからも新たな発見が期待されています。
すまでらの昔をとへばやまざくら
良寛がそう詠んだ須磨に、今年も桜の季節がやってきます。
高橋昌明(講談社)
武家政権の基礎を築いた平清盛とはどんな人物であったのか。保元の乱以降の清盛の生涯が、豊富な文献の引用を交えて丁寧に描かれており、当時の政治情勢の推移を詳しく知ることができる。
著者は、清盛の福原退隠を政治手法ととらえ、後白河院に対抗するために、京都六波羅と神戸福原を拠点として平家一門の大勢力を築こうとしたと分析。この勢力を鎌倉幕府に先行する「六波羅幕府」と見る論説は興味深い。
東アジア全体を見据えた平氏系新王朝の創設を目指していた清盛だが、反乱の勃発などにより、準備半ばで福原に行幸せざるを得ず、結局、新都建設も出来ぬまま還都が行われ、清盛の夢も潰えた。
橋爪紳也(創元社)
著者所蔵のパンフレットやチラシから見る大正~昭和初期の京阪神は、とてもあざやかで魅力的だ。「武庫川畔の社交の場」「ケーブルと山上の陽春」などの郷土の昔や、当時のニュービジネス「人造温泉」「新案素人書き肉筆本」といった何やら怪しげな話まで、珍しい図版で紹介されている。どの章も面白そうで、どこから読もうかと目次を眺めるのがまた楽しい。
田中眞吾(神戸新聞総合出版センター)
「地形学が注目されるのは、皮肉なことに世の中が異常の時である。一つは戦時であり、(中略)もう一つは自然災害が発生した時である」。そう始まる「地震」の項では、阪神・淡路大震災の被害状況を地形や地盤から解析するエピソードが語られる。
他にも「会下山・大倉山丘陵」「淡路島」など、項目は多彩。神戸新聞に連載されたものを再編集しており、学術書よりも気軽に、大地を読み解くことができる。
矢野恒男(フォーラム・A)
神戸事件とは、慶応四年に開港間もない神戸で発生した、岡山備前藩と外国軍隊との衝突事件。維新政府最初の外交問題で苦境に立たされたが、備前藩士瀧善三郎がその責を一身に負い切腹することにより事件は収まり、新政府は危機を脱出した。
著者は、趣味の短歌創作から辞世に興味を持ち、新渡戸稲造の『武士道』に出会った。その「切腹」の章に紹介されたのが善三郎の切腹の場面である。善三郎の辞世は「幾のふみし夢は今更引きかへて 神戸が宇良に名をやあけなむ」
神戸事件が新政府に果たした役割と、新政府の犠牲になった善三郎の死を検証している。
「人・街・海・山-神戸で学ぶ」編集委員編(兵庫歴史教育者協議会)
神戸を初めて訪れる中高生に見て欲しい、学んで欲しい場所をまとめる。「神戸の中の中国を歩く」「中学生が発見、会下山遺跡」「六甲山の山頂はどこか」など、ガイドブックより一歩踏み込んだ解説を読むだけでも楽しいが、カラー写真の散りばめられた十八センチのコンパクトな形態は、街歩きの友にぴったり。巻末に見学施設案内、参考文献付。
(枻出版社)
神戸らしいもの、と言われてイメージするのは何だろう。ケーキやパン?それとも牛肉や日本酒だろうか。そんな、どこにでもありそうだけれど「なんだか違う」と言われる神戸モノを紹介する本書。キムチや焼売、穴子などの食べものだけでなく、洋服、日傘、商店街、夕景等々・・・。数々の神戸らしいモノたちを眺めていると、今日はあれを買って帰ろう、今度はあそこに行ってみよう、と口元がほころんでくる。
後藤比奈夫(ふらんす堂)
四年にわたる月刊誌『俳句朝日』の連載を一冊にまとめたもの。
俳句七句と季節のエッセイがセットで、見開きの二ページに収められている。
神戸や関西の風物詩、同じ俳人である父夜半のこと、句会の様子などを、作者の「心の小窓」を通して描いている。俳句は当然ながらエッセイも軽妙洒脱で、パラパラと拾い読みするだけでも楽しめる。
寺内邦夫(和泉書院)
作家でもある著者は、神戸市外国語大学で島尾敏雄の教えを受け、自らを”島尾の残党”と称する。
副題に「一背景」とあるように、本書は作品を正面から論じたものではないが、在りし日の作家やその家族、いくつかの作品の背景を丹念に追い、精細に描き出す。そうして積み重ねられた各章は、さまざまな角度から島尾の姿を照らし、その人物像を結びなおす。
師への敬愛の思い溢れる一冊。島尾敏雄生誕九十周年記念刊行
拓未司(宝島社)
神戸でフレンチビストロを営む柴山幸太は、ハーバーランドで行われた妻の友人の結婚式で、料理評論家と知り合う。翌日、ポートタワー傍で発見された男性の他殺死体。果たして事件の結末は!?
著者はフランス料理店で働いていただけに、料理の描写は生唾もの。第六回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作。
神戸市教育委員会ほか編集・発行
兵庫県と神戸市によって名木に指定された木々のうち、東灘区と灘区にあるものを写真とともに紹介している。
ページを繰るごとに青々とした葉を繁らせた美しい大木が現れる。
写真を見ているだけで心が落ち着いてくるようだ。マップ付きなので、本書を片手に名木鑑賞の散歩に出るのもよいかもしれない
これは、明治7年(1874)神戸に「兵庫・大阪ドイツ帝国領事館」が開設されてから100年を記念して昭和49年(1974)に発行されたもので、ドイツ語と英語が併記されています。
「神戸ドイツ領事館の歴史」というタイトルの章では、各領事の時代ごとに出来事が細かく記されており、当時の領事館や日独交流の様子を知ることができます。そのほか、神戸在住の実業家で歴史研究家でもあったハロルド・S・ウィリアムスによる「神戸における外国人社会のドイツ人」や、神戸の貿易発展もわかる「商人と領事たち」、日本で活躍したドイツ人教師たちの日独友好の功績を綴った「回顧と展望」などの論文と、明治34年(1901)の領事館建物の写真などで構成されています。
なお、現在領事館は「大阪・神戸ドイツ連邦共和国総領事館」として大阪に在ります。
再度山の大龍寺から登山道を少し南へ下ると、「毎日登山発祥の地、善助茶屋跡」と刻まれた石碑に出合います。
明治30年代、布引貯水池とその水源林である再度山一帯の監視人として、吉岡善助と善太郎の兄弟が山小屋を建てて住んでいました。兄弟は見回りをしている時に、山に登ってきた外国人E・H・ハンター(大阪鉄工所を設立、現日立造船所)と知り合います。ハンター一家をお茶に招待するうちに、外国人の間で善助の山小屋が知られるようになり、いつしか茶屋になったといいます。
北野町や山本通に住んでいた外国人たちは出勤前に山に登り、茶屋のサインブックに署名するのが日課でした。彼らに刺激を受け、神戸っ子の間に早朝毎日登山の習慣が広まりました。善助茶屋では、外国人向けにコーヒー、紅茶、タンサン水、ケーキといったハイカラなものを揃えていました。一方、大龍寺の門前に開かれた善太郎茶屋では、お参りの人向けにおでん、団子、てんぷらなどを出していたそうです。
そのハンターが眠っているのが、再度公園北の丘陵地に広がる神戸外国人墓地です。慶応3年にできた小野浜外国人墓地と、明治32年の春日野外国人墓地を、昭和36年に移転統合しました。開港以降、神戸に関係する約60カ国、20余りの宗教の約2700人が、宗派別に区画された中に埋葬されています。
初代神戸港長のマーシャル、ラムネ製造のシム、小野浜造船所のキルビー、宣教師で学校を創立したランバスやタルカットなど、神戸の近代化に大きな役割を果たした人々。墓参すると、神戸開港の歴史をひとめぐりできそうです。見学には事前申し込みが必要ですが、門の左手から高台へ登ると墓地の一角を望むことができます。
14ヘクタールという広大な墓地ですが、最近の新聞記事によると、イスラム教徒の埋葬場所(土葬)が、飽和状態になりつつあり、別の地での墓地探しに苦慮しているとのことです。
外国人たちが再度山に登る1000年以上前に、2回登ったと伝えられる人物が、弘法大師です。再度山の名は、弘法大師が唐へ渡る前に登山し、帰国後再び・・登山したことから起こったといわれています。付近の地名には、仏教に由来するものが少なくありません。「修法ヶ原(しおがはら)」は、弘法大師修法(しゅうほう)の地であることによりついた地名です。仏教語で「御修法(みしほ)」ということから、シオと発音され、文字では「塩ヶ原」とも書かれるようになりました。長い間「修法」と「塩」の両方が使われ、書籍、国土地理院の地図、現地の標柱もまちまちで混乱していましたが、昭和59年、「修法ヶ原」に統一されました。
修法ヶ原池(しおがはらいけ)のほとりに「六甲植林発祥の地」という碑が建っています。
六甲山は、生活に必要な燃料や木材を得るための伐採が過剰に行われ、明治の頃は荒廃していました。当館所蔵の『武庫連山海陸古覧』を見ると、摩耶山の天上寺、再度山の大龍寺の社寺林などを除いては、樹木が少ない山だったことがわかります。
明治35年、布引貯水池の水源林育成と水害から市街地を守るための砂防植林が始まりました。その最初の地が、再度山修法ヶ原です。
『西摂大観』にその経緯が書かれています。山肌を階段状に整備した造成工事と植林後の記録写真を見ると、緑のよみがえる様子は目をみはるばかりです。昭和49年、神戸市では再度山の30ヘクタールを「再度山永久植生保存地」とし、植生と土壌の調査を5年ごとに行ってきました。植林から100年たった現在、多様な植物が生育する森にするため、必要な伐採を行うなどの継続的な手入れがされています。また「こうべ森の学校」という、一般市民が森の手入れをする活動も行われています。
平成19年2月に、再度公園・再度山永久植生保存地・神戸外国人墓地は、国指定の名勝となりました。古代より仏教に縁の深い地に、明治に再生した緑につつまれ、様々な国と宗教の人々が眠っていることが、神戸の外国文化の奥深さをあらわしているように思えます。
『毎日登山発祥の地-善助茶屋』津田周二編集(神戸登山研修所)ほか