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最終更新日:2023年12月1日
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-神戸ふるさと文庫だより-
映画『GO』の撮影が行われた神戸市営地下鉄上沢駅
最近、フィルム・コミッション(以下FC)が注目を集めています。
FCは映画やテレビの撮影場所の紹介や許可手続きの代行、エキストラの手配などを行う組織で、一九七〇年代にニューヨーク市長が「映画演劇放送/市長オフィス」を設けたのが始まりです。規制の多い日本では、煩雑な手続きを一手に引き受けてくれるFCは大活躍。撮影費や観光客増加などの経済効果もあることから、今や全国で約六〇ものFCが設立されています。
しかし、日本のFCはまだ発展途上中です。ニューヨークでは、FCに道路の使用許可の権限が与えられていたり、警察が専門部署で無料のサポートを行うのに比べ、日本では、スタッフも少なく、道路の使用許可にもひと苦労…。東京が舞台の映画『GO』でも、都営地下鉄構内の撮影許可が下りず、地下鉄のシーンは神戸で撮影されました。
神戸では早くから市が関わり、神戸フィルムオフィスを設立。『GO』の撮影は、長年に渡る努力の積み重ねで実現したものです。これまでの実績は四〇〇本以上にのぼり、神戸の魅力の発信基地として、また市民が映像に親しむきっかけとして、今後ますますの活躍が期待されます。
横山勝(清風堂書店)
知的ハンデをもつこどもたちの水泳指導を始めてからの十数年間の歩みを、こどもたちの成長の記録を中心にまとめたもの。
ほんの軽い気持ちで引き受けた指導であったが、マニュアルもなければ事例もない。一般の水泳指導法では役にたたない。手探りのなか、前進と時には後退を繰り返しながらの活動を支えたのは、こどもたちの成長や親たち周囲の努力だった。そして彼女たちは、奇跡ともいえる成果をあげていく。
著者は、自身のこれまでの経験が今後の指導法に活かされること、そして、広くはすべての人の人権が守られる平等な社会を願う。
楠本利夫(セルポート)
元町駅から鯉川筋を北へ、山手幹線を越え細い坂道をのぼった突き当たりに、昭和三年、わが国初の国立神戸移民収容所ができた。海外移住の希望者はここで予防接種を受け、移住先についての講話を聞き、残り少ない日本での日々を過ごした。移民の施設としては昭和四六年に幕を閉じたが、建物は戦災、震災にも耐え現在も坂の上に在る。
あまり知られていない、神戸の海外移住史を知る貴重な一冊。
神戸華僑人研究会編(神戸新聞総合出版センター)
開港以来神戸の発展に大きく貢献してきた華僑について、人物を中心としてまとめたもの。
神戸で活躍してきた人、また現在も活躍を続けている人など七人を取り上げ、貿易、教育、宗教、文化など多方面にわたる活動と生涯を描いている。これまで取り上げられることが少なかった大阪、京都の華僑の歴史もまとめられており、貴重である。
登尾明彦(みずのわ出版)
定時制の兵庫県立湊川高校において、著者は三八年間教鞭を取り、今春退職した。
本書に収録された数々のエッセイの行間からは、同和教育、解放教育の実践の嵐の中で、<熱い心>を持ち、決して<逃げない>で、真剣に生徒に向き合ってきた教師像が鮮明に浮かび上がってくる。
三部作として他に『湊川、私の学校』『湊川を、歩く』がある。
CODE海外災害援助市民センター編著(神戸新聞総合出版センター)
なぜ「KOBE」とローマ字で表現されているのか。ひとつには、世界では震災が「KOBE地震」と報道され、被災地を象徴するものとして使われていたから。また、この本では被災地、被災者をはじめ国内外で救援にかかわった人たち、地域・コミュニティをさすものとしても使っているからである。
そのKOBEから発信するメッセージ「支えあいに国境はない」という救援活動の様子が紹介されている。
神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会編(明石書店)
神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会」が、一九九九年秋以来行ってきた調査の報告である。
全体は四部に分かれる。最初の三部「韓国・朝鮮」「中国」「連合軍捕虜」には、文献調査、関係者の聞きとり、韓国・中国での現地調査など四年がかりの成果がまとめられている。第四部は「調査する会」の「活動の記録」である。
「調査する会」に所属する在日韓国・朝鮮人、在日中国人、日本人、一人ひとりの草の根的な努力が、明治以来、国際都市として輝かしく発展してきた神戸の「負」の部分に迫る。
神戸ながたTMO(アスク)
地場産業の衰退、人口の流出などの問題を抱える最中での被災。長田のまちは大きな打撃をうけた。なんとかせねばという思いで若手商業者、地元商店街、企業が中心となり「株式会社神戸ながたTMO」を設立。現在、様々なまちの活性化事業を行っている。めざすは「震災のまち」から「食のまち」へ。本書にはそのイベント活動の手に汗握る裏話や地元自慢のお店が紹介されている。また「長田っ子の下町流儀」「長田流お好み焼きの攻略法」(特に”激辛どろソース&熱燗”の食べ方には驚いた)の項では、長田の魅力にあらためてふれることができる。
高橋明子(友月書房)
地震の日から、もうすぐ七年。住み慣れた灘の家からポートアイランドへ移り住んだ信子は、長年の友の突然の死から、残された時間を意識することが増え、考えに沈む日々を過ごしていた。
そんな折、娘の出産のためイランから来日した女性と出会い、いくつもの新しい体験をする。
主人公信子の心の揺れ動く様子が、繊細に描かれた小説。
ファラ・ディビッド・中野道雄(審美社)
布引の滝は、かつて日本有数の滝として知られ『伊勢物語』や『栄花物語』などにも見え、多くの宮廷貴族たちが和歌に詠んでいる。
それらの和歌を刻んだ歌碑が、布引の滝へと続くハイキングコースに点在している。本書は、その全ての和歌を英訳したもので、歌碑の写真と和歌の原文も載せている。
訳者のディビッドさんは、震災の年に来日。現在は神戸市外国語大学助教授。
『福原鬢鏡』は1680年に刊行され、原本は当館所蔵のものを含め全国に僅かしか残っていません。「鬢鏡」というのは鬢髪を映す小さな鏡のことで、地方の名所旧跡をごく簡略に映し出した本といった意味になるのでしょうか。源氏物語を挿画と発句でダイジェストに描いた『源氏鬢鏡』を模して『福原鬢鏡』とつけたとも言われています。内容は神崎川(大阪市)から須磨の西、境川までの沿道の名所を挿絵と句で紹介するという趣向のものです。この名所案内は、その年33年ぶりに行われた須磨寺の開帳にあわせてつくられました。冒頭には「名高き須磨寺の開帳と(略)遠つ国々まで其かくれなきよし聞え侍れば(略)案内者ともならんかし」とあり、当時の人々が須磨寺の開帳をイベントのように楽しみにしていた様子が想像されます。
「小松清(1900-1962)」の名をきいてもなじみのない人が多いかもしれません。神戸に生まれ、若き日、フランスに長く暮らした彼は、フランスの芸術や文学を広く日本に紹介し、日仏の文化交流に多くの業績を残します。そして、その陰には、フランスの作家、アンドレ・マルローとの生涯にわたる友情がありました。
今から約百年前の明治三三年、小松清は神戸市兵庫区に誕生しました。実家が米穀店を営む裕福な環境のなかで育ちますが、小学校時代にはペスト事件に、神戸高商在籍中には、米騒動(鈴木商店の焼き打ちは有名)にと、二つの大きな事件に巻き込まれます。特に米騒動はもともと理想家肌だった彼の思想に大きな影響を与えたと思われ、この騒動を境に、次第に社会運動へと傾倒していきます。彼は、神戸高商を退学した後、上京し、社会革命家としての活動を始めます。そして上京から二年後の一九二一年七月、ついには日本を飛び出し、単身フランスのパリへと向かいます。彼が、その後再び日本へ戻るのは、一〇年後のことです。
パリに落ち着いた彼は、フランス語や社会運動の勉強を始めます。この頃、後のヴェトナム大統領ホー・チミンとなったグエン・アイ・コォクと知り合い親交を深めています。お金がなくなれば肉体労働などをして生活費を稼ぎながら、才能あふれる若き芸術家たちとの交流の中で、自身も絵筆を握るという生活を送っていました。この滞在中、最も大きな出来事は、フランスの作家、アンドレ・マルローとの出会いでした。マルローは作家であり革命家であり、また美術にも造詣が深いということで、清とは随分気が合ったようです。
マルローと出会ったこの年(一九三一年)、清は一〇年ぶりに帰国。そして、その後、清を追うように、マルローが夫人を伴い神戸を訪れました。日本の文化や精神、特に武士道に深い関心を持っていたマルローは神戸港での記者団のインタビューで、さっそく「ハラキリ」談義をはじめ、記者たちを驚かせます。
『大阪朝日新聞』昭和六年十月八日
どんな戦いも悲劇なしに終わることはありません。この小説においても、キヨは反逆者として捕らえられ、人間性の尊厳を守るため、自ら死を選びます。小松は「マルローは、キヨの選択に<サムライの再現>をみようとした」といっています。そして、この小説は舞台を上海から神戸に移して終わります。神戸はマルローが初めて日本の土を踏んだ思い出の地であり、小松清の故郷であることを思えば、意味深いものを感じます。
清とマルローが生きた時代、フランスや日本、世界各地で大きな革命や戦争が起こりました。二人は時には自らその戦いの中に身を投じ、また、巻き込まれながらも、お互いの友情が変わることはありませんでした。マルローの作品の多くは清が翻訳し、マルローは清に全幅の信頼を寄せていました。フランスを愛した清と日本を愛したマルローの友情は日仏の文化交流の架け橋の役割を果たしたのです。
小松清は一九六二年六月五日、六二歳の生涯を閉じました。
フランスの小説家、評論家、革命運動家。革命に生きる人間を内省的に描いた作品が多い。『征服者』『王道』『人間の条件』が有名。第二次世界大戦後はド・ゴール政権下で長く文化相を務めた。