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最終更新日:2020年6月3日
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-神戸ふるさと文庫だより-
ガクアジサイ
梅雨時分の楽しみは、青やピンクの花をつけるアジサイである。街で見かけるボール状の花をつける種はヨーロッパで品種改良され、逆輸入された西洋アジサイだ。
アジサイは日本原産で、六甲山にはコアジサイやヤマアジサイなどの野生種が自生している。なかでも有名なのがシチダンカ。この花はヤマアジサイの系統と考えられ、花弁状のガクが八重になっている。濃青色の花は中心に向かうほど星状に重なる美しい花である。
医師で博物学者だったシーボルトはアジサイ好きで有名だが、彼の著書『フローラ・ヤポニカ』に「ヒドランゲア・ステルラータ」としてシチダンカが記されていた。しかしその後、この花は忽然と消え、再び人びとの前に姿を現すのは、昭和43年。六甲山ケーブル沿線で小学校職員が発見するまで130余年の空白があった。
後の研究で、シーボルトが記した種との同一性を疑問視する説もあるが、六甲の山中でひっそりと咲き続けてきた、花たちのミステリーは色あせない。
村上圭三(丸善株式会社)
著者は、産経新聞神戸支局勤務時代、当時の神戸市長原口忠次郎と交わり、明石架橋への彼の執念に感嘆する。原口氏亡き後も取材を重ね、今春、明石海峡大橋の完成を見とどけた。
本書は、明石海峡大橋を可能にした技術の進歩を平易に解説し、原口氏をはじめ、架橋に携わった人びとの人間像を描く。また、明石海峡大橋が21世紀には関西圏の文化や経済の交流の要となると予言する。
そのほか、古今東西の橋の歴史が、架橋にかける人びとの情熱と技術開発という視点から記されており、「橋は人間の夢である」という冒頭の一文の重みが伝わってくる。
青木典司(神戸市スポーツ教育公社)
トンボには2億5千万年という人類より長い歴史があるという。「トンボ」学者である著者が、トンボが今、神戸の自然の中で、どのような状況におかれているのか、その生態から生息状況にいたるまで、非常に丁寧に理解しやすく解説している。
身近な生き物としてのトンボが、自然環境の変化によって危機的な状況にある。あらためて、自然を守ることの大切さに気づかせてくれる一冊である。
(神戸市須磨区役所)
須磨は、明治から大正にかけて、関西の富豪たちが競って邸宅や別荘を建てた住宅地であり、一方、須磨寺公園など観光地としても発展してきた。
これまであまり知られていなかった須磨の華やかな近代の様子を、写真や史話を通して楽しく知ることができる。先に刊行された『須磨の歴史散歩』とあわせ読むと、一層の興味がわいてくる。
朽木史郎・橋川真一編著(神戸新聞総合出版センター)
兵庫県には、世界に誇る名城姫路城があるが、その他にも戦国合戦の舞台となった城や、城主もわからない遺構などを含めると、千あまりの城があったといわれている。
赤松氏によって築城され布引の城とも呼ばれた滝山城、鼓の音にちなんだという伝説の残る蒲公英(たんぽぽ)城など、神戸市内の4つの城をはじめ、40近くの城がとりあげられている。
資料に基づいたしっかりとした歴史的研究と、紀行文の親しみやすさをあわせもった好書である。
神戸100年映画祭実行委員会・神戸映画サークル協議会編(神戸新聞総合出版センター)
神戸ではじめて映画が上映されたのは、明治29(1896)年。日本初である。そして映画は、たちまち庶民の心をつかみ、娯楽の王様となっていく。
映画が、神戸に上陸して100年。神戸の映画興行、神戸映画サークル協議会の活動、神戸100年映画祭など、神戸と映画の一世紀をふり返り、今後の展望を模索する。
佐野由美(六甲出版)
著者は、長田区生まれの22歳。今春大阪芸術大学を卒業した。その著者が、生まれ育った長田の街を震災体験も交えてイラストと文で綴った。
人工的に作られた現代の街はムダがなくスマートだが、無機質で没個性になりがちだ。人びとが自然と集まってできた下町は、人間味にあふれ、表情豊かである。そんな下町の姿が伝わってくる一冊である。
播磨学研究所編(神戸新聞総合出版センター)
本書の内容は、平成8年の播磨学特別講座「歴史って面白い・・・播磨の謎を探る8考」の講義録である。神話の謎から弁慶、宮本武蔵、秀吉と姫路城天守閣の謎にいたるまで、播磨は歴史上の謎に満ちた土地として、プロ、アマを問わず、歴史研究者の熱をかきたててきた。『播磨国風土記』『播磨鑑』『峰相記』といった文献が頻繁に引用され、文字どおり「播磨学」の世界が展開する。
最大の謎の一つは、高砂市の石の宝殿だが、いつ誰が何のために作ったか、をめぐって石棺の石材研究を糸口に、中央政権と地方勢力との関係をさぐるなど、意外な結論が導き出されていておもしろい。
由良佐知子詩集(編集工房ノア)
詩誌「火曜日」同人である垂水区在住の著者が、この10年間に書いたものを集めた。「・・・私の肩に蝉が止まった/両手に抱えたシーツに顔を埋め/息を凝らす/どんな木になろう/・・・」「(どんな木)」
日常に出会ったものを見定め、留めておこうとする著者の優しい視線が感じられる。2部は震災以降に書かれたもので、著者の心の変化が読みとれる。
鹿島和夫(理論社)
長く小学校教員を勤めた鹿島先生による子どもの詩集の一つ。これは阪神・淡路大震災の詩を集めたものである。
「大じしんがおこった/ぼくの家はしょっきだながめちゃめちゃになっている/弟はたんすのしたじきになった/(中略)/お母さんが毎日わらわなくなった」「(大じしん)」といった詩など、周りの様子や人びとを見つめる子どもたちの目にハッとさせられる。
大森一樹(平凡社)
映画監督である著者が、阪神・淡路大震災に遭遇し、家族とともに体験したこと、妻、娘や息子の家族それぞれが見聞きし、感じたことなどをエッセー風にまとめたもの。
著者は、映画としてこれを「語り」たかったのだが、「映画的真実」と「体験的真実」との違いを感じ、活字による表現を選んだ。と、あとがきにある。
家族への愛情やユーモアあふれる語り口は、読者の気分を和ませてくれる。しかし、震災下の現実をとらえる著者の視線は冷静できびしい。
ガーデニング特集
平成10年4月5日、世界一の支間長をほこる明石海峡大橋が開通し、神戸~淡路~四国が直結しました。当初の構想からじつに70年近くの年月を経てのことです。
さて、本州と四国のあいだに橋を架けるという構想は、明治22年にはじまります。香川県選出議員久保之丞の瀬戸大橋ルート構想です。その後大正3年の徳島県選出議員中川虎之助と、12年の鉄道大臣大木遠吉の鳴門架橋構想、昭和14年の鉄道大臣永田秀次郎と、15年の徳島県選出議員紅露昭の明石・鳴門海峡トンネル構想へと続くのです。
昭和14年、原口忠次郎は阪神大水害復旧のため、内務省神戸土木出張所長として満州から呼び寄せられました。神戸の復旧に尽力するなか、15年、彼は四大事業として、鳴門架橋建設、瀬戸内海航路改修、神戸港拡張、第二阪神国道建設を策定しました。しかしあまりのスケールの大きさに、世間の理解を得ることはできませんでした。そこへ太平洋戦争が勃発。
戦後、原口はふたたび神戸の復興に尽くすことになります。神戸高速鉄道や六甲山トンネルの構想もこの時に生まれたものです。
原口は昭和24年、神戸市長に当選します。まず彼が行わねばならなかったのは、神戸市財政の立て直しでした。市政が軌道に乗ると、架橋への夢はふたたび燃えあがり、28年には明石架橋建設のための調査を開始しました。そして34年、神戸市独自の明石海峡大橋の計画案ができ上がりました。(下図)
3つの吊橋からなり、最大支間1,300m、全長4,900mにもなるものです。これが完成すれば、アメリカの五大湖にかかるマキノ橋を抜いて、当時としては世界最長の吊橋となります。
この頃になると、本州と四国を橋でむすぼうという計画が本格化し、神戸~鳴門など5ルートの調査を開始、兵庫、徳島など各地で橋の誘致合戦がはじまりました。昭和45年には本州四国連絡橋公団が設立され、まず尾道~今治ルートの橋の一部が、次いで大鳴門橋が、瀬戸大橋が開通しました。そしていま、明石海峡大橋が開通し、来春の尾道~今治ルートの開通をもって、本四架橋の全ルートが開通するのです。
当初「夢の架け橋」となかば揶揄された架橋構想ですが、原口は架橋に神戸港の発展、ひいては日本経済発展の未来を夢見ていました。彼は四国・淡路地方が阪神間と経済的に深いつながりをもちながらも発展が立ち後れている原因を、輸送力を海上交通にたよっているためであると考えました。車社会の到来を予測し、淡路、播磨など、周辺地域を道路網でむすぶ構想をうちたてたのです。
原口忠次郎の墓所は、明石海峡大橋を見下ろす舞子墓陵に位置しています。彼は一生をかけた夢の実現を、熱い思いで眺めていることでしょう。