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最終更新日:2023年7月27日
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-神戸ふるさと文庫だより-
「神戸舊圖」(部分)若林秀岳画『神戸古今の姿』より
(開港前の幕末期の頃の兵庫津辺り)
一九三一年(昭和六)、明石市の西八木海岸で、化石化した人の腰骨が発掘されました。発掘したのは、アマチュアの研究家・直良信夫でした。直良の発見は諸学者からは評価されず、骨も戦災で焼失してしまいます。
ところが一九四八年、東京大学に残されていた石膏模型をもとに、長谷部言人が衝撃的な論文を発表しました。この骨は北京原人(七〇~二〇万年前)と同じ時期に生きていた原人(明石原人)のものだというのです。
この説には異論も多くあり、猿人から現代人にいたる各種の骨盤を比較した一九八二年の分析によると、この骨は原人ではなく、現代人のものに近いとの結論でした。
また、その後の現地調査で、六~七万年前の地層から木器や石器が発掘されたことから、「明石原人」はこの時代に生活していた人ではないかとも考えられています。
化石発掘から原人説発表までの直良への毀誉褒貶は激しいものがあり、松本清張はそれを題材に小説「石の骨」を書いています
ビジュアルブックス編集委員会編(神戸新聞総合出版センター)
本書は江戸末~昭和初期の激動の時代に、神戸や東播磨で活躍した三十二人を取り上げている。神戸市街開発の先駆者である加納宗七など、彼らは芸術・工業など様々な分野で、高い志と先見性を持って時代を築いた。
「それぞれの地域で、それぞれの人がふるさとを育て、日本を変えていった」(あとがきより)ふるさとの先人たちの業績を思うと感慨深く、また励まされもする。
富士通テン編集・発行
神戸を「海」「街」「山」の三つの視点で捉えた写真集。
夕日に染まる兵庫運河、活気にみちた南京町、緑ひろがる六甲山上で草を食む羊たち。新しいものと古いもの、東洋と西洋が混在する街神戸で、変わっていく風景と変わらぬ風景がある。そして、それぞれに歴史がある。神戸の街はこれからどんな風景を造っていくのだろうか。
林春男(岩波書店)
地震はなぜ起きるのか。被災した時、人は何を感じるのか。復旧・復興はどう行われるべきか。著者は、阪神・淡路大震災の経験と研究をもとに、今後の「防災」を簡明に綴る。「被害をできるだけ小さくする」もし被害が出たら「効果的な災害対応をおこなって、被害の拡大をおさえ、早く社会の安定を回復させる」。あたりまえのように聞こえるかもしれないが、大震災時のエピソードやデータが多く挿入され、実感をもって迫る。万が一次の大地震が訪れたときには、万全の備えで臨みたい。それがあの震災で得た教訓だと思う。
中島豊著・発行
現在の神戸繁栄の祖となった平清盛とは、どのような人物だったのか。また、清盛がなぜ福原に都をうつしたのか、海岸を埋め立てて造成した経ヶ島とはどこなのか等について、多くの史料を参考にしながら考察している。
清盛と神戸のかかわりだけでなく、古代からの神戸の地形の成り立ちや歴史にも触れており興味深い。
神戸市立中学校長会編(みるめ書房)
社会が複雑化し多様化するにつれ、子どもたちの心の揺れが捉えにくくなってきている。学校や家庭で彼らをどう導くことができるのか、大人たちも模索している。そうした中で神戸市中学校長会は四年に渡り、中学生の規範意識調査を行ってきた。携帯電話を、喫煙を、外泊を、子供たちはどう考えているか。具体的な項目の結果分析を踏まえ、専門家たちが「今後の対応」への提言を試みた一冊。
張さつき(未来社)
聡明だけれど耳の聞こえにくい九十八歳の母と、自分では下の世話ができなくなった姑。六甲の自宅マンションで介護を始めた著者が、日々の暮らしや家族への愛情を綴ったエッセイ集。
「二人を介護することと、自分のしたいことをすることと、天秤に掛けてみる。私の人生がたとえば明日限りという時、充実感はどちらにあるか。答えは明確だ。」と介護に心をこめる。
忙しくとも、時間を作っては旅行に出かけ旧友との再会を喜ぶ。楽しいことには大笑い、つらいことには涙して、好きなことには大感激。朗らかにプラス思考で生きることは人生をこうも美しく色鮮やかに輝かせるものだろうか。
中右瑛(里文出版)
神戸のタウン誌『神戸っ子』に連載された「夢二・四つの恋ものがたり」(一九九九年―二〇〇二年)を修正・補足・追加し一冊にまとめたのが本書。
夢路は現在の兵庫県立神戸高校に入学するがペストにより学校は閉鎖、約九ヶ月で中退し岡山に戻る。エキゾチックな神戸の特殊な風土は彼に異国への憧憬を抱かせ、画家になることを決定づけたと筆者は想像する。
上田文世(淡交社)
神戸生まれの落語家、桂枝雀の伝記。昔から「いちびり」で、何かと冗談などを言っては周囲を笑わせる子供だった。探究心も人並み以上で、道を歩きながらネタを繰り、もっと、もっと、と落語にこだわり、話芸を追求し続けた。笑いの「四原則」など彼独自の落語観にはなるほどと感心させられる。
うつ病で苦しみ自死を選んだ枝雀の、落語への熱い思いが切ないほど伝わってくる一冊。
津本陽(潮出版)
幕末の混乱期に頭角を現し、日本が大きく変わる時代を生き、また時代の変革に関わった男、勝海舟の物語。
一幕臣であった勝は、開国か攘夷か揺れる国内で海防の重要性を説き、次第に政治の中枢へと入り込んでいく。旧弊にとらわれず、型にはまらない勝はまさに、時代が求めた人物であったともいえる。幕末から明治にかけ日本の夜明けに大きく貢献した坂本竜馬をはじめ、多くの人物に影響を与える。数々の功績の中でも、特に江戸城の無血開城に導いた功績は多大なものであった。
勝の生き方は、現代に生きる者たちにも多くの示唆を与える。
この地図はイギリス人の土木技師ハート(John William Hart)が、明治はじめに作った神戸外国人居留地の計画図です。
神戸外国人居留地は、アメリカとの間で結ばれた日米修好通商条約(1858年)により開港した神戸港に併せて作られました。居留地内は東西に5本、南北に8本の街路が通され、22ブロック126区画に分けらていました。海岸線にはプロムナード(遊歩道)が設けられ、街路、プロムナードには街路樹が植えられ、青い海岸に緑が映えた当時の美しい町並みが目に浮かぶようです。
地図はたて1555mmよこ巾1078mmの大きなもので、明治3年(1870)と明治5年(1872)作成のものとがあります。(ともに複製)
慶応三年十二月七日(一八六八年一月一日)、兵庫(神戸港)が開港しました。ペリー来航より十三年後のことでした。しかし、この開港は幕府側と倒幕派、朝廷側との政争の火種となることとなり、なかなか容易なことではなかったのです。
一五〇年前の嘉永六年、長らく鎖国状態にあった日本に、新しい市場を求めて、ペリー提督率いる四隻のアメリカの軍艦「黒船」が浦賀に現れました。開国か攘夷(外国人を打ち払い通交を拒否すること)か、国内は大きく揺れます。しかし、圧倒的な軍事力を背景に開国と通商を求めるアメリカに抗しきれず、日本はペリー来航の翌年日米和親条約を、さらにその四年後には日米修好通商条約に調印することになります。(その後、同様の条約をオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも調印)
アメリカは、各地の開港と開市を強く求めました。幕府は先の和親条約で下田・函館の開港を、修好通商条約では神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大阪の開市を約束します。しかし、幕府内での意見は統一されてはいませんでした。そこで幕府は朝廷の勅許を得、内部の反対意見を抑えようと考えますが、思わぬ朝廷の抵抗にあいます。時の孝明天皇は、京都に近い大阪、兵庫については特に強く拒否し、幕府は勅許を得ることができなかったのです。国内の情勢から条約調印の延期を求める幕府に、アメリカはイギリス・フランス軍の侵攻をほのめかせるなどして、幕府に圧力をかけてきました。やむなく、幕府は勅許を得ないまま、条約に調印します。
事後に通商条約調印の報告を受けた朝廷はこれを認めず、さらには将軍の継嗣問題が複雑に絡んだ攘夷の動きが活発化、幕府はそれら反勢力に徹底的に弾圧を加えました(安政の大獄)。これに怒った水戸藩士は大老の井伊直弼を桜田門外で暗殺(桜田門外の変)します。このような国内情勢下での条約履行は不可能と判断した幕府は、使節を渡欧させ、兵庫・新潟開港、江戸・大坂開市の期日を慶応三年十二月七日(一八六八年一月一日)まで延長することに成功します(ロンドン覚書)。しかし、この時もまだ朝廷の勅許を得ることはできてはいませんでした。
外国側は、条約勅許と兵庫開港等を求め、慶応元年九月、英・米・蘭・仏の四カ国の連合艦隊を大阪湾に進入させ、兵庫沖に停泊させました。この事態を受け、幕府は朝廷の勅許を得ることに成功し、予定通りの開港を外国側に約束し、艦隊はようやく去ります。しかし、ここに到っても兵庫開港は差し止められたままでした。
慶応三年、孝明天皇は崩御しますが、兵庫開港の勅許は得られないまま、幕府は外国側と兵庫開港についての交渉を始めます。期日の迫る中、将軍慶喜は再度勅許を奏請し、ついに五月二十四日、勅許を得ることに成功し、兵庫の開港が正式に公布されました。この時、約束の期日までに残された時間は約半年でした。
開港場所は、これまでの兵庫津より東側、生田川と湊川間の湾曲部に決められ、居留地は神戸村集落の東側と生田川との間に造成されることになりました。兵庫津では人家が多く、居留地を設けることが難しかったことや外国人を遠ざけるねらいがあったためと思われます。
慶応三年十二月七日(一八六八年一月一日)、兵庫(神戸港)が開港し、国際港湾都市「KOBE」が誕生しました。