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最終更新日:2020年6月3日
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-神戸ふるさと文庫だより-
日清戦争の従軍記者として中国へ赴いた子規は、帰途、船中で喀血し、神戸で下船、明治28年5月23日、神戸病院に入院します。小康を得た子規は7月23日、療養のために須磨保養院へ移り、故郷の松山へ行くまでの1ヶ月間、須磨に滞在しています。
当時須磨には、日本最初のサナトリウム「須磨浦療養院」があり、紛らわしいことに、隣接して「須磨保養院」もありました。後者は療用にも保養にも利用されていた施設で、子規はこの「須磨保養院」に滞在し、サナトリウムの医師の診察を受けていたようです。
須磨保養院から友人、家族へ宛てた書簡が『子規全集』に収められています。風光絶佳の須磨にあって、子規もいにしえの歌人にならい、歌や句を詠んでいます。「すまの浦に旅寝しおれば夏衣うらふきかへす秋の初風」「水無月の須磨の緑を御らんぜよ」。しかし、28歳の子規の胸中は複雑で、思いは東京へ、文学活動へと飛んでいたことが書簡からうかがえます。
須磨には「暁や白帆過ぎ行く蚊帳の外」の句碑が建っています。
本州四国連絡橋公団編(海洋架橋調査会)
平成10年4月「夢の架け橋」と呼ばれた明石海峡大橋が開通した。調査から40年、着工延期もあるなか、10年という歳月をかけて橋は完成した。
「夢」と言われた橋がどのようにして現実のものとなったか、架橋の歴史や実際の工事のようす、架橋技術についてなど、明石海峡大橋を中心に、他の本州四国連絡橋などの話もふくめ、豊富な写真や図を使いながらわかりやすく紹介する。
長い年月と多くの試練を克服しながら完成した世界最大の吊橋は、人の英知をかけた技術と汗の結晶であり、また、人びとの「夢」の結晶でもある。
(法研)
川に沿って歩くのは楽しいもの。歩きなれた近所の川沿いばかりでなく、ちょっと足をのばしてみたい。そんな時に活躍しそうなのが本書である。
関西の川沿いコースが、見開きのイラストマップにまとめられ、周辺の簡単な見どころ紹介がある。市内では、石屋川、西郷川、妙法寺川など6ヶ所。コースタイムや周辺の交通量など、細部まで丁寧な案内である。
(兵庫県治山林道協会)
植物学者牧野富太郎は明治14年、高知から神戸へ向かう蒸気船から六甲山を見て、雪かと見違える程のひどいはげ山に驚いた。風化しやすい花崗岩からなる六甲山は無数の災害を歴史に残してきた。現在の緑豊かな姿は、明治35年以後のたゆまぬ植林・治山事業の成果だ。
昭和13年の大水害や今回の大震災など、自然の脅威に立ち向かい続けた人びとの努力が、安全を支えている事を実感する。
柿衛文庫編(神戸新聞総合出版センター)
兵庫県には須磨・明石など、歌枕の地が多くあり、古くから文人墨客が訪れた。近世には松尾芭蕉や与謝蕪村などが訪れ、さらに、田捨女や上嶋鬼貫などの俳人も輩出した。
明治以降には、須磨で療養する正岡子規を弟子の高浜虚子が見舞い、その後「ホトトギス」門下の山口誓子などが活躍した。また、後藤夜半の「諷詠」、橋間石の「白燕」、赤尾兜子の「渦」、永田耕衣の「琴座」(りらざ・平成八年終刊)など、現在も続く俳誌が次々と創刊された。
本書は、これらの俳人を短冊や色紙などの豊富な資料とともに紹介する。兵庫県ゆかりの俳人を知るうえで、基本的な図書ともいえる1冊である。
上之郷利明(講談社)
震災の朝、ダスキンチェーン本社ビルに社長が到着したのが6時35分。1時間後には対策本部が設置された。営業所の救援に活躍した「チャリンコ部隊」は、現金、水、食糧などを積んで被災地を走った。以後、炊き出しやバザーなど、会社組織をあげての支援活動を展開する。
危機に直面した経営者と社員が何を考え、どう行動したかを描くドキュメントである。
田中眞吾・中島和一編(神戸新聞総合出版センター)
神戸群層の植物化石、滝野の闘龍灘、豊岡の玄武洞、鳴門海峡、兵庫県南部地震で活動した野島断層など、兵庫県域には貴重な地形や地質が多く存在する。
本書は、これらの自然遺産がいかに大切なものであるかを認識し、保護・保全に対する理解を深めることを目的としている。植物編、動物編に続く、レッドデータブックの第3弾。
城山三郎(朝日新聞社)
加古川生まれの俳人永田耕衣の「大晩年」を描いた伝記小説。
耕衣は大工場のナンバー3の地位、製造部長兼研究部長で定年退職を迎えた。すでに独自の世界を確立していた句作は以後ますます充実し、90歳で現代俳句協会大賞を受賞する。
「出会いは絶景」を口癖に、あふれる好奇心で人や物に対峙し続けた彼の人生は、定年後の方がめざましい。著者は、「晩年まで一年一年、成長し開花し続けた」と表現している。人生の最期まで、十全に生きることが難しい時代に、どうしたら耕衣のように生きられるのか。著者とともに彼の足跡を追えば、その秘訣があきらかになるかもしれない。
(遊タイム出版)
WAKKUN=涌嶋克己氏を知らない人も、「がんばろうKOBE」のTシャツのイラストならご存知のはずだ。震災直後、神戸の街にWAKKUNが描いた虫や鳥や動物たちや、言葉がみんなを元気づけてくれた。
「見えへんとこにもおりまっせ/友達がいてよかった」「この広い広い宇宙の中で/友達がいてよかった」。ページをめくると、心がちょっと、あったかくなる。
織田正吉(葉文堂出版)
著者は昭和6年神戸生まれ。テレビ、ラジオの演芸番組の作構成に当たってきた。日本笑い学会の副会長で、笑いやユーモアに関する著作も多い。その著者が折々に詠んだ川柳を、旧作新作まじえ、1冊に編集したものがこの句集。
著者は、難解な語や技巧をこらした語句は使わない。平易な言葉で、なにげない人生の1コマを、時にはおかしく、時には悲しく切り取ってみせてくれる。
(京都精華大学人文学部呉研究室)
京都精華大学の学生たちによる、神戸と外国文化に関するフィールドワーク調査の報告集である。
神戸と豚マン、異人館と庭、在日韓国・朝鮮人のインタビュー等、テーマはさまざま。神戸の洋家具についてのレポートでは、明治から続く洋家具店店主への聞き取り調査を通して、神戸家具の特徴を浮かび上がらせている。
平成5年に第1集が出た当シリーズもすでに5冊目。既存の図書だけでは得られない貴重な情報を収めた報告集に、これからも大いに期待したい。
私たちの生活が洋風化し、古くからの生活習慣や年中行事が消えてゆく傾向にあります。しかし形は変わっても、季節に合わせ連綿と行われる行事もまた多いのです。
正月の7日、春の七草を食する「七草粥」もそんな風習のひとつ。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、と唱え言葉にもなって親しまれています。その昔、七草のひとつ、すずしろ(ダイコン)の名産地が神戸にあり、その地は「若菜の里」と呼ばれていました。
『攝津名所圖會』には「若菜調貢」(わかなのみつぎ)として次のように記されています。「菟原郡中尾村の人、生田浦より若菜を採って禁裏に献る。七種の其一種なり。これを生田の若菜と呼ぶ。宇多天皇の御時より…(略)」。このことから、平安時代の9世紀末頃から、この地の若菜が知られていたことになります。また、延喜11年(911)に宮中の七草粥儀式のため若菜を献上した、と記した文献もあり、古くからこの地の「有名ブランド品」であったことをうかがい知ることができます。
新神戸駅東側の山すそ、中央区中尾町の住宅地の中に泉隆寺があり、その門前には「史蹟若菜の里阯」と寺の縁起を刻んだ石碑が建っています。超音山泉隆寺は弘長2年(1262)に僧西順によって建立されました。当初は真言宗の寺院だったのですが、文明3年(1471)、蓮如上人の巡錫の時、真宗に改宗します。このことは、神戸における真宗寺院の発祥ともなりました。
蓮如は、本願寺7世だった父の死後43歳で継職し、以後、三河から摂津にかけて積極的な布教活動を行いました。泉隆寺では、源平の争乱(寿永3年・1184)によって途絶えていた、宮中への若菜献上の行事を復活させました。この地のすずしろは泉隆寺に集められ、西本願寺を経て、宮中に送られたのです。以後この行事は、幕末まで続いたといわれています。
現在、泉龍寺の境内には蓮如上人の腰掛け石と蓮如の作として「旅人のみちさまたげやつのくにの生田のうらの若菜なりけり」という歌碑が立っています。が、この歌は、藤原師輔が「生田の小野の」と詠んだ歌の改作だともいわれています。
平安朝の和歌にも詠み込まれています。紀貫之は「行きてみぬ人も偲べと春日野の形見に摘める若菜なりけり」と、また宣秋門院丹後は「問はれねば誰かためとてか津の国の生田の小野にわかな摘むらん」と詠んでいます。
小倉百人一首の「君がため春の野に出でて若菜つむ吾が衣手に雪は降りつつ」という歌に代表されるように、古来、春を待ちこがれる人びとの、生命の再生のシンボルが「若菜」だったのでしょう。きっと「若菜の里」という土地もまた、吉祥のイメージを伴って語られていたと想像されます。
今の「若菜の里」は、ビルや住宅が集まり、農村風景を想像させるものは残っていません。地名として「若菜通」の名前が、ずっと南へ下ったJR線の所に残されているだけです。