ホーム > 生涯学習 > 神戸市立図書館 > 神戸市立図書館トップページ > 神戸の郷土資料 > KOBEの本棚-神戸ふるさと文庫だより- > バックナンバー(19号~60号)KOBEの本棚 > KOBEの本棚 第52号
最終更新日:2023年7月27日
ここから本文です。
-神戸ふるさと文庫だより-
ポートライナーの車内から見た神戸空港
都心・三宮と人工島(ポートアイランド)を結んで、神戸新交通ポートアイランド線(ポートライナー)が開業したのは昭和56年2月5日のこと。安全快適で低公害、経済性にも優れ、完全無人運転ということで話題を呼びました。同年に開催された「ポートピア'81」会場へのアクセス手段として記憶されている方も多いのではないでしょうか。
公共輸送の担い手として重要な役割を果たしてきましたが、平成7年の大震災では甚大な被害のため全線不通となり、全面復旧には数ヶ月の日数を要しました。その間代替バスが運行され、延べ350万人近い利用がありました。
開業25年目となる今年2月2日には延伸線が開通し、終点「神戸空港駅」を含む3つの駅が新設されました。神戸空港開港前の見学会には、大勢の人がポートライナーで訪れました。
ポートライナーの延伸はわずかな距離に過ぎませんが、その先には何百キロもの空の旅が広がっています。
小山敏夫(ネコ・パブリッシング)
かつて神戸に市電が走っていた事を知らない世代も増えたが、市電は明治末から昭和の成長期にかけて、神戸の街を歴史とともに確かに駆け抜けていった。
本書は在りし日の市電の姿を、戦後復興期の交通局に勤めた著者が、豊富な写真図版と、現場の人間ならではの精緻な文章でまとめた、渾身の作。別著者が車両を解説した下巻も刊行されている。市電が走る街並みに、ファンならずとも追憶で胸がいっぱいになる。
高階杞一(砂子屋書房)
神戸在住の著者による、書名にふさわしい、ほんわかとした空気をもつ詩集である。だが、例えば「杜子春」という作品では、「一生懸命仕事をしよう」と「ハローワーク」に行った杜子春が「今時ああた、そんな条件のいい仕事おまへんで」と言われる場面もある。杜子春とハローワークの組み合せの可笑しさ、世相を反映した苦味、時に飛び出す関西弁、と刺激的で、思わずページを繰ってしまう。
久保光弘(学芸出版社)
阪神大震災以降、住民主体のまちづくりが社会に定着したが、本書では最も被害の大きかった長田区の復興事業を例に引きながら、まちづくりとは何かを説きおこしている。著者は建築学および都市計画の専門家であり、区画整理事業、道路のデザイン、産業のビジョン、景観と建築のルールづくりと、各分野に踏み込んだ内容になっている。
長く行政型開発で名を馳せてきた神戸市が、震災を機に、住民主体の社会へ踏み出そうとしている姿が描かれ、未来への期待に満ちた1冊。
吉岡充(エピック)
著者は長田区在住。震災の4年前に絵を描くために美術教師を辞め、地元の古い建物に魅せられてきたが、震災後、被災地を描くべきだという想いに駆られた。
描き続けて、震災から10年、作品展は8回を数え、計240余点の作品は震災と復興の記録としてこの画集に集約された。
「北野の復興」「水辺の復興」「街の復興」など八章から構成され、各作品には、作者のコメントが添えられている。
成美昭彦(文芸社)
六甲山を歩きはじめて18年。本書にはその経験が「楽しく」描かれている。神戸っ子になじみのレジャースポット・六甲山だが、足で登らなければ分からない姿もある。客観的に読むと、著者と山仲間は、楽しいだけでなく危険で過酷な目にも遭遇しているのだが、「気持ちしだい」「つまり、楽しむということ」の姿勢ですべてを受け入れ、その経験を次の山歩きに生かしている。
神戸空襲を記録する会編(神戸新聞総合出版センター)
「神戸空襲を記録する会」は昭和46年、神戸で市民活動として発足した。戦後60年にあたる平成17年夏、会所有の空襲写真パネルが市民募金によって更新され、パネル展と内橋克人氏の記念講演会が開催された。
本書は、その写真全50点と講演録のほか、戦災地図を最新の地形図上に重ねた「神戸空襲戦災地図」(カラー)、米軍資料による報告、在日外国人や連合国捕虜の空襲体験、阪神・淡路大震災と交差させた記述などを収録。過去の記録にとどまらず、新しい視点からの編集を試みる。
野村和弘(神戸新聞総合出版センター)
著者は元神戸市職員で、本書は平成16年に博士論文として提出したもの。近代における神戸市政の性格を明確にすることを目的に、市制が施行された明治22年から終戦までを、歴代市長と市会の関係を中心に論じている。
著者はこの間を、都市基盤形成期、大正不況期、昭和恐慌期、戦時体制期、戦後復興期の五段階に分ける。社会情勢や経済事情の変化に合わせた各時代の政策。それらを対比することにより、神戸市が継承してきた「都市像」とは何かを描きだす。
大下英治(河出書房新社)
昭和46年、井上大佑という一人のバンドマンが、神戸でカラオケを生んだ。三宮のクラブで弾き語りの伴奏をしていた彼は、客のリクエストからカラオケを思いつく。しかし当時、スナックで歌うような人はおらず、サクラを仕掛けるなど様々な工夫を重ねて、ようやく普及させたのであった。
雑誌『タイム』の「20世紀で最も影響力のあったアジアの20人」に選ばれながらも、幼少から変わることのない素朴な人柄に焦点を当て、彼の半生を追う。
徳永道彦編著(友月書房)
摂津や河内で造られた地車は、岸和田周辺のものと区別して上地車(かみだんじり)と呼ばれる。本書はその上地車で名声を博した工匠「大佐」の作品を集め、車体の精巧な白木彫刻による八岐大蛇(やまたのおろち)退治や源平合戦などの名場面を楽しむことができる。
神戸からも御影東之町、田辺、西御影、岡本の地車が取り上げられ、彫り物のほか、神戸特有の造りが紹介されている。
『神戸観光写真帖』は神戸市観光課が昭和12年10月から13年9月の間に発行しました。客船の待合所や一流ホテルに備えることを目的に100冊製作されており、図書館にあるものもこのうちの1冊と思われます。
中を開くと、名所旧跡の写真と共に、アーチ状の玄関を通して写した趣ある神戸市庁舎や、人々の行き交う元町通りなど、当時を思わせる写真が登場します。また摩耶山天上寺の写真は、写真家中山岩太のものです。中山岩太は、その当時、神戸市からの依頼を受け、観光写真を手がけていました。
この写真帖は台紙に直接印刷されたものも含め46点の写真から成っているのですが、写真帖の最初の方には客船の入港風景、終わりの方には出港風景が用意されています。このようにさりげなくストーリー性をもたせた洒落た構成も、この写真帖の魅力のひとつかも知れません。
妙法寺の追儺式
神戸市営地下鉄には、お寺の名前が駅名になっている駅があります。それは須磨区にある「妙法寺」。一般には地名として親しまれていますが、そもそもは寺の名前が村名になり、地名として残りました。
妙法寺は、高野山真言宗で、寺の縁起によると、天平10年(738)聖武天皇の勅願所として行基が開基したといわれ、また神護景雲2年(768)と書かれた一切経写経84巻が保存されていることなどから、古くからあった寺のようです。
本尊は、行基が作ったと伝えられる毘沙門天。平安時代後期のもので、昭和15年(1940)に重要文化財に指定されました。
昔は、7堂伽藍37坊があったといい、妙法寺川に沿って300メートルほど南には山門跡の標石があり、かなり広大な寺域を持っていたことがうかがえます。周辺には、「大門(だいもん)」や「堂ノ下(どうのした)」「円満林(えんまんばやし)」などといった寺にちなんだ地名が今も残っています。
平安時代の末期、平清盛があわただしく断行した福原遷都。6ヶ月という短期間で、都は再び京都へ戻りました。その折、清盛は平安京の鞍馬になぞらえて、妙法寺を新鞍馬と称し、福原を守る霊場として、千石余りの寺領を寄進したといわれています。
南北朝の時代には、足利尊氏・高師直派と尊氏の弟、直義派の対立が、全国的な騒乱となった観応の擾乱に、妙法寺にも火の粉が飛んできました。観応元年(正平6・1351)、足利尊氏の軍が西国に敗退したとき、高師直らの兵火によって、焼失したのです。
元禄10年(1697)に再建されましたが、明治初めには3坊、現在は本堂(円蔵院)の1坊のみになっています。
毎年1月3日には、千有余年の伝統ある「追儺式(ついなしき)」が行われます。「鬼追い」ともよばれるこの行事は、鬼が子鬼を連れて旅をしているところを表しているといい、神戸市無形民俗文化財に登録されています。
鬼は、「ジカ鬼」が五人、「太郎鬼」「次郎鬼」「ババ鬼(クジリ鬼ともいう)」がそれぞれ1人と子鬼2人。たいまつを持ち、本堂の回廊で踊ります。最後に参拝者へ餅まきが行われ、行事は終了します。
また、明治44年(1911)出版の『西摂大観』には、当時の追儺式の様子が描かれています。
境内には応安3年(1370)という銘のある石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。宝篋印塔とは、塔の一種で、「宝篋印陀羅尼経(だらにきょう)」を入れたことからその名がついたといわれており、後には供養塔・墓碑塔として建てられるようになりました。以前は近くの街道わきにあったものが、道路拡張の際に、境内へと移されました。造立年代が明らかな上に、各部が完全でよく整っている点は貴重で、兵庫県の指定重要文化財となっています。
江戸中期に開設された摂津国88所霊場の第86番札所でもある妙法寺。今まで、どれほど多くの人々がここを訪れ、何を願っていったのでしょうか。境内にある大木は、変わらぬ姿で参拝者を見守り続けています。