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最終更新日:2020年6月3日
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-神戸ふるさと文庫だより-
兵庫区・祥福寺
ラムネ、パーマ、映画と、何事にも「日本初」が多い神戸ですが、市庁舎北側にある花時計もまた、日本で最初のものなのです。
神戸に花時計をつくるという考えは、故宮崎前市長(当時助役)が、海外視察の際に欧米の花時計を目にして生まれたものです。しかし、国内では前例のないことだけに、直径六メートルという文字盤の大きさ、時計部分の防水技術、丈夫で開花期間の長い花の大量確保など、実現までにはさまざまな課題がありました。それら課題を一つ一つ克服し、昭和三十二年四月二十六日、新市庁舎の落成式において、日本で初めての花時計が動き始めました。以来、観光名所として、また市民の憩いの場として親しまれるようになりました。
今日、全国には直径三十一メートルのものや、さまざまな工夫を凝らしたものまで二百五十以上の花時計があります。四十余年の時を経て、神戸の花時計は、すっかり都心の風景の一部となりました。季節を彩る美しい花はこれからも、人びとの心を和ませ続けてくれることでしょう。
ロジャー・パルバース(講談社)
ハーンが教師として松江にやってきたのは、もう四十歳近くなってからであった。ヨーロッパでもアメリカでも自分の居場所を見つけることはできず、異端であると感じ続けた「さまよえる魂」。最終の地、日本で彼はなにを見出したのか。著者は自らの在日体験と重ね合わせながら、ハーンの心の軌跡を追いかける。
ニューヨーク生まれの作家であり劇作家・演出家でもある著者を惹きつけたものとは何だったのだろうか。著者は言う。「ハーンとぼくは、どの国も代表しない。ぼくたちはぼくたち以外の誰も代表しない」と。
安保則夫編(八千代出版)
関西学院大学の社会科学系の教員が、震災に関する問題について行った共同研究をまとめた。
「市民と行政の越え難い壁とそれを越えるもの」や、「震災弱者の救済手段のあるべき姿とは何か」といった論文をはじめ、統計やアンケート調査に基づく分析、論考からは、成熟しているとは言い難い我々の社会のあり様が浮き彫りにされている。
黒部亨(神戸新聞総合出版センター)
淡路に生まれ、廻船業者として巨万の富を築いた江戸後期の豪商高田屋嘉兵衛。彼は兵庫を拠点に北海産物の交易に従事、さらに幕府の命をうけ、蝦夷地の調査、開発にもあたった。ロシア軍人ゴローニンが幕府に囚われた事件の際、嘉兵衛は報復としてロシア側に捕らえられたが、豪胆で誠実な人柄から士官リコルドの信頼を得、幕府との間に立って事件の解決に尽力した。本書にはその活躍が生き生きと描かれている。
田所竹彦(築地書館)
孫文は、神戸とゆかりの深い人物である。日本の土地を最初に踏んだのも神戸であり、最後に日本を訪れたのも神戸への訪問のためであった。
この孫文の思想や行動について、その先見性や現代的意義を追求し、なぜそれが可能だったかを考えるというのが本書の目的。
著者によれば、今の中国の経済改革・対外開放路線を先取りした考え方が、孫文にはみられるという。三峡ダムの構想をはじめて示したのが孫文であり、大規模な鉄道・港湾の建設計画と、それにともなう外資導入なども考えていたという。
山田和尚(サンマーク出版)
阪神・淡路大震災の発生した平成七年は「ボランティア元年」ともよばれ、延べ人数にすれば百万人単位のボランティアが活躍したといわれる。
著者は、震災直後から活動を始めたボランティア団体・神戸元気村の代表。当時のボランティア活動には、一人ひとりが自分の限界を超えて、「いのちの力」を実感していくことに大きな意味があったという。
吉田啓正(信山社サイテック)
著者は、須磨水族園の元園長で、現在は鹿児島市立水族館の館長。搬入中のジンベイザメの死、珍しいが地味な生物ハオリムシの展示法など、著者が述べる現場の苦労は一般には知りえないことばかりだ。昨今、水族館や動物園は残酷だ、不要だ、という批判がある。本書はそれらを真摯に受け止めつつ、水族館のあるべき姿、さらには人間と自然の関わり方を考えていく。
中華会館編(研文出版)
神戸に華僑の人びとがやってきたのは一八六八年、兵庫開港の時である。華僑の結束をはかるため、一八九三年、中華会館が設立された。その後会館は、一九〇四年に法人化され、神戸華僑の活動の中心的組織となった。
建物は一九四五年六月の神戸大空襲で焼失する。戦後、対外的政治的活動面は、華僑総会が担うこととなったが、組織としての活動は今日まで連綿と続けられ、一九九八年、建物の再建も果たされた。本書は中華会館の歴史をまとめたものだが、同時に、神戸華僑の歴史を語ることにもなっている。
(神戸新聞総合出版センター)
黒沢映画などで名演技をみせてくれた俳優の志村喬、万博開会式や神戸ポートピア博のプロデュースを手がけた内海重典、宝塚歌劇の大スター春日野八千代、淀川長治の四人が、自らの軌跡を語った。
肩ひじ張らない語り口の中には、仕事に対する情熱や愛情がさらりと織込まれている。個人的なエピソードを重ねあわせてみると大正、昭和という時代の流れも見えてくる。
木村紺(講談社)
主人公は、神戸の大学に通う辰木桂(たつきかつら)。彼女を中心に、友人や弟、弟の彼女たちの何気ない日常を描くやさしいタッチのストーリーまんが。
スケッチ風に描かれる神戸の風景や主人公たちが交わす普段着の会話の中には、観光都市ではない、生活する街としての神戸の姿を垣間見ることができる。時間に追われることなくゆっくりと神戸の街を歩いてみたい、そんな気にさせる作品である。
(C.木村紺/講談社アフタヌーンKC掲載)
片木篤〔ほか〕著(鹿島出版会)
明治以降、国内と旧植民地で形成された郊外住宅地の事例を紹介する。県下からは、宝塚・雲雀ヶ丘、西宮・甲子園、芦屋・六麓荘、市内からは住吉・御影の住宅群がとりあげられている。
住宅地はどのように作られたか、「郊外」に移り住んだのはどういう人だったのか、何をイメージし、何を求めたのだろうか。全国の田園都市の歴史を探る中からは日本社会の近代化の過程が浮かび上がってくる。
神戸市兵庫区の山麓に祥福寺(五宮町)という寺があります。高台にある境内は静かで、市中とは思えない別世界の雰囲気です。案外知られていませんが、たいへん由緒のある寺でもあります。
この寺は臨済宗妙心寺派の禅寺で一六八五年に雲巌(うんがん)和尚によって創建されました。雲巌は禅僧として名高い播州の盤珪(ばんけい)に師事しています。全国でも三十余しかないという専門道場をもち、雲水たちが日夜厳しい修行に励んでいます。
禅の修行の第一は己事究明(こじきゅうめい)、つまり自己とは何かを究めることとあります。このような宗旨に惹かれて、座禅を組んで自分を見つめようという人々にも広く門戸が開かれています。黒い墨染めの衣を着て神戸の町中を托鉢して歩く、この寺の雲水たちを見かけた人も多いことでしょう。
大正の初め、この寺の若い二人の僧が漱石と手紙をやりとりしていました。二人の僧とは鬼村元成(きむらげんじょう)と富澤敬道(けいどう)で、このとき鬼村は二一歳、富澤は二十四歳でした。彼ら宛ての漱石の書簡が『漱石全集』二十四巻(一九九六年刊)に収録されています。鬼村宛てが二十通、富澤宛てが五通です。
文通の始まりは祥福寺で修行中の鬼村が大正三年四月、漱石に手紙を出したことから始まります。薮の中で『我が輩は猫である』を読んだという若い僧に、漱石は修行中なのに本など読んでもよいのかと気にしつつも、お礼の言葉を返しています。
宗教とは無縁のような漱石ですが若い頃から禅にだけは興味を持ち、鎌倉の円覚寺に参禅したこともあります。作品の中にも繰り返し禅のテーマが扱われています。漱石にとっては、禅の道を究められなかったことが、生涯心にかかっていたことでした。手紙を書いてくる修行僧の若者に、漱石は自分の周囲にはない清々しい、真摯なものをみて惹かれたのでしょう。よほど興味があったのか、漱石は手紙の中でしばしば禅僧の書画や禅語について尋ねています。
鬼村は胃病の静養のため故郷の島根へ一時帰省しますが、そこでも文通は続きます。彼は手紙のほかに島根名産の昆布の砂糖づけ、神戸の瓦煎餅などを漱石に送っています。漱石からは自作の著書を送ったり、哲学の本を読みたいというのに応えて、岩波書店の店主岩波茂雄に、彼ら宛てに哲学の本を選んで送ってやってほしいと頼んだりしています。
大正五年十月、二人の僧は名古屋での雲水の修行会に出席した後、東京まで足を延ばし、漱石の家に一週間滞在します。漱石は、自ら玄関まで出迎えて「さあお上り」と声をかけて二人を招き入れてくれたそうです。いつもふところ手をし、背を丸めて、二人を机の前と横に座らせて文学や学問の話はせず、二人の修行の話を聞きたがった。と富澤はこの時の様子を記しています(『漱石全集』別巻)。後に神戸へ戻った富澤は、町でふと見た新聞で、漱石の危篤を知り、ぽろぽろ涙を流します。この初対面から二ヶ月後、漱石は持病の胃潰瘍が悪化し五十歳で歿します。
二人との交流は晩年の漱石に大きな影響を与えたに違いありません。当時執筆中だった未完の『明暗』の中に、その跡を見つけることができるのではないでしょうか。