KOBEの本棚 第43号

最終更新日:2024年9月22日

ここから本文です。

-神戸ふるさと文庫だより-

  • 第43号 平成15年2月20日
  • 編集・発行 神戸市立中央図書館

内容

神戸市立葺合高等学校(現)の校門
神戸高等商業学校→神戸市立神戸中学校→神戸市立葺合高等学校(現)と書き換えられてきた校門

  • 「神戸ビーフ」(エッセイ)
  • 新しく入った本
  • ランダム・ウォーク・イン・コウベ

神戸ビーフ

おいしい肉といえば、神戸ビーフのことがすぐに思い浮かびます。ステーキ・シチュー・ビフカツ・しゃぶしゃぶなど、どんな料理に使ってもおいしく食べられ、「味の芸術品」と呼ばれています。

神戸ビーフの歴史は、慶応年間にまで、さかのぼることができます。このころ横浜の商館が神戸から牛を購入したところ、それがたいへんよい肉で評判になり、「神戸肉」の名が一躍有名になったとの記録が残っています。

明治二二年に、神戸オリエンタルホテルで食事をしたイギリス人作家キプリングも、ポテトサラダや魚フライとともに、ビーフステーキの味を絶賛しています。

最近では、NBAのスーパースター、コビー・ブライアントのことも有名です。コビー(Kobe)の名前は、父親が大好物だった神戸ビーフにちなんで付けられた名前だそうです。

世界の舌を魅了すると言われる神戸ビーフ。神戸に住んでいるからには、何度でも食べてみたい味です。

新しく入った本

北神戸歴史の道を歩く

野村貴郎(神戸新聞総合出版センター)

失われた風景を歩く神戸の北部は、豊かな自然だけでなく、歴史のある地域で、古道も多い。源義経の「鵯越の坂落し」で有名な鵯越道や一ノ谷の合戦に向かう熊谷直実が通ったと伝えられる熊谷道。有馬温泉へ通じる湯乃山街道や幕末に西国街道の迂回路として造られた徳川道。北区の郷土史や史跡案内として読んでも楽しいが古道を歩きながら北神戸の歴史に触れてみたくなる一冊。

心のカベ、崩壊―ハンディキャップにとらわれないぼくの生き方

藤田益啓(碧天舎)

幼いころから身体にハンディをもつ著者が、生まれてからこれまでの三〇数年間を書いた。愛情いっぱいに育ててくれた両親のこと、いじめ、淡い恋心、かけがえのない仲間との出会い。

からりとした文章は、次々と襲う病気や大震災など、大きな困難や、数多くあったであろう苦労も暗く感じさせない。周囲への感謝の心を持ち、前向きに生きる著者は自然体である

歴史が語る湊川―新湊川流域変遷史

新湊川流域変遷史編集委員会編(神戸新聞総合出版センター)

歴史が語る湊川―新湊川流域変遷史湊川が新湊川に付け替えられて約百年。その歴史は水害と人々の戦いの歴史でもある。住民たちの手で現在の位置に付け替えられたが水害は収まらず、兵庫県が改修工事を続けてきた。

本書はこの工事の完成を記念して出版され、整備された現在からは想像出来ない困難の歴史を紹介している。湊川流域は古くから交通や物流の要所で、大きな合戦の舞台にもなった。古墳や雪御所跡などの史跡も多く、新湊川の堰堤や隧道も明治期の貴重な遺産である。先人の文化を知ることから川に親しみ、共生を探ろうとした一冊である。

消防隊員が見た阪神・淡路大震災 The Great Hanshin-Awaji Earthquake As Seen by a Firefighter

吉本和弘著・発行 青木幹生翻訳

あの時消防はどうしていたのか。

あの時の記憶を残し、広く世界中の人々に伝えるための一著。

情報も届かず、用水も無い状況下で、三日間眠らずに消火活動救助活動に取り組む、あの時の著者の記憶、同僚の記憶。

受け入れる病院が無い、絶望的な交通渋滞の中での人工透析患者、けが人、避難所生活からくる様々な障害患者の搬送など、震災翌日からの救急活動の記憶。

単なる活動記録ではなく、今後の災害時の対応への提言など消防士としてまた一人の人間として分析し、あの時の消防隊員の思いを伝えている。(日英対訳)

 

チャレンジド―ナミねぇとプロップな仲間たち

牧田清撮影(吉本音楽出版)

「チャレンジド」はハンディキャップなどに代わる新しい英語で「神から挑戦という使命や課題、チャンスを与えられた人」を意味する。「ナミねえ」とは、社会福祉法人プロップ・ステーションの創設者で理事長の竹中ナミさん。チャレンジドの社会参画と就労を目指す人々を追ったモノクロのドキュメンタリー写真集。

悲のフォークロア―海のマリコへ

大森亮尚(東方出版)

戦後の高度経済成長の裏側で、艱難辛苦に耐えて生きた人々がいる。ストリップ劇場の火災で焼死した踊り子、山津波で家族を失ったスナックのママなど、著者は無名の人々の人生を追い、記録する。彼らの人生の悲哀と、それでも失われなかった「勇気」「誠実」「律儀」というまっとうさを書留めようと試みる。ルポルタージュ風で読みやすいが、読み飛ばしてはならない個々の人生の重みが在る。

神戸とお好み焼き―まちづくりと比較都市論の視点から

三宅正弘(神戸新聞総合出版センター)

神戸とお好み焼き―まちづくりと比較都市論の視点から神戸には「にくてん」の名で親しまれたお好み焼きがあった。粉に具を混ぜる「混ぜ型」ではなく「のせ型」のそれは、広島焼のように名物化されることはなかった。だが地元の味として兵庫・長田などの町のお好み焼き屋には今も継承されている。

店にはこだわりの地ソースが存在し、客は狭い店内で大きな鉄板を囲むように座る。これが「にくてん」を継ぐ神戸のお好み焼き屋の基本である。そこにある土地の味とぬくもりこそ地域文化として大切に守られていくべきものだと著者は言う。

丹念な調査で独自の地域文化論を提唱した興味深い一冊。

六甲の灯

吉田たつこ(文芸社)

六甲の灯かつて東六甲で一番高いゴロゴロ岳に山火事を見張る望楼があった。この小説はそこに三八年間たった一人で勤務した池野良之助氏をモデルにしたものである。孤独、悪環境との戦い、出会い、結婚、別れ、大水害、戦争。物語は実に淡々と描かれていく。だが、昭和の激動を生き、職務を貫いたその人の人生の重みが、読後に確かな質感となって残る。

犬隠しの庭

多田智満子(平凡社)

犬隠しの庭著者は灘区在住の詩人でありエッセイスト・翻訳者として知られる。本書は、六甲山のふもとに暮らす著者の生活と知識の深さを垣間見せるエッセイ集。

魚を助けようと、干上がる杣谷川に井戸水を撒く。庭のコジュケイの声を聞いて鳥にも方言があるのかと首をかしげる。そら豆を人の顔に見立て、口に入れながら、とも喰いみたいと考える。

選ばれた言葉から成る文章は何気ないユーモアに富み、かつ不思議な広がりを感じさせる。

東山魁夷ものがたり

佐々木徹(ビジョン企画出版社)

東山魁夷ものがたり東山魁夷は一九〇八年横浜に生まれ三歳で神戸に移住。その後一九四二年、父の死去の年に実家が引き払われるまで神戸と地縁があった。初個展は元町、鯉川筋の画廊である。魁夷の書簡、著作の引用が随所にあり、筆者は実証的に「日本画家東山魁夷」を洞察しようとする。

幼少期から思春期におけるキーワードは「孤独」「絵」「自然」。四二歳で作品『道』により画壇に認められるまでをひとつの区切りとする。戦争、肉親の病死、自己模索の苦闘期である。そして、一生を貫くのは「旅人として」の生き方、心がまえだと筆者は言う。

絵の前に立ち、「旅人」という語をかみしめてみたい。

震災

  • 大震災100の教訓 塩崎賢明・西川榮一・出口俊一・兵庫県震災復興研究センター編(クリエイツかもがわ)
  • 震災ボランティアの社会学―<ボランティア=NPO>社会の可能性 山下祐介・菅磨志保(ミネルヴァ房)
  • RADIO―AM神戸69時間震災報道の記 ラジオ関西震災報道記録班編著(長征社)
  • ことばの日々 安水稔和(編集工房ノア)
  • 神戸発―いのち輝く都市へ 金芳外城雄編(「神戸発」取材委員会)

その他

  • ひょうごの山野草―兵庫県に自生する身近な草花178種 神戸山草会編(神戸新聞総合出版センター)
  • かくて緑は残った―甲山森林公園の歴史 辰巳信哉(日本造園修景協会兵庫県支部)
  • 関西の鉄道史―蒸気車から電車まで 作間芳郎(成山堂書店)

今回ご紹介した『犬隠しの庭』の作者である多田智満子さんは、今年一月二三日、七二歳で亡くなられました。謹んでご冥福をお祈りします。

ランダム・ウォーク・イン・コウベ 43

神戸大学

阪急六甲から山の手へ一〇分ほどたどると右手の高みに神戸大学のキャンパスが広がっています。

神戸大学は、一〇の学部、九つの研究科に及ぶ大学院、さらに経済経営研究所、付属図書館、医学部付属病院等の施設、種々のセンターなどと充実した内容を誇る総合大学です。昨年五月、創立一〇〇周年を迎えました。

王子動物園のすぐ西、現在神戸市立葺合高等学校の地に明治三五年(1902)、神戸高等商業学校(神戸高商)が創設されました。明治に入って急速に発達していく我が国の経済と貿易を担う人材の育成は時代の急務であり、東京に次ぐ第二の高等商業学校の設置でありました。設立地には神戸の他大阪も名乗りをあげましたが、帝国議会において一票差で神戸に決定しました。膨大な江戸の消費を支えた商都大阪でなく、開港都市神戸が選ばれたことに時代の感覚が伺えます。第一回生一七二名の出身地は、北海道から鹿児島にいたる三三都道府県にわたりました。

建議案(第十四回帝國議会衆議院 明治三十三年一月十八日議事にて大阪市に高等商業学校を設置することについての建議案がだされる。投票の結果、賛成七十、反対七十一で否決され、神戸に決定する。)

この神戸高等商業学校が神戸大学のルーツに当たります。昭和四年(1929)には神戸商業大学と名を改め、昭和一〇年(1935)に現在の六甲台に移転、さらに昭和一九年(1944)、神戸経済大学と改称しています。戦後、昭和二四年(1949)姫路高等学校【→教養課程・文理学部】、神戸工業専門学校【→工学部】、兵庫師範学校・兵庫青年師範学校【→教育学部】を統合して神戸大学と改称し、総合大学として発足しました。昭和三九年(1964)に兵庫県立医科大学が、四一年(1966)には兵庫県立農科大学が国立移管され、それぞれ医学部、農学部として設置されました。

ここに、ほぼ現有の学部が勢揃いするのですが、六甲台には法、経済、経営の三学部のみで、教養課程は御影分校と姫路分校に別れ、御影には文学部と理学部も在りました。教育学部は赤塚山、工学部は新長田、医学部は楠町、農学部は篠山にと、その所在地は県下各地に散らばってまさに、蛸足大学と呼ばれるに相応しい有様でした。学生が六甲台に集うのは入学式や卒業式など全学的行事に限られ、種々の会議や学生サークルなど全学規模の日常的な活動や連絡にはいろいろと不便も多く、一日も早い蛸足解消が待ち望まれた次第です。

阪急六甲駅付近から見た神戸大学

六甲台には戦後の一時期、進駐軍に接収され将校たちの住宅地として六甲ハイツと呼ばれる一帯がありました。その跡地および周辺に敷地を確保し、工学部(1962)、文学部、理学部、教養部、教育学部、農学部(1969)が次々と移転して漸く蛸足を解消できたのでした。

時代が移り社会が変化するにつれて、大学の役割やありようも当然変化します。教養課程は教養部に、さらに国際文化学部へと発展。これまで多くの教員を送り出してきた教育学部も、少子化などと相まって、ついにはほとんどの卒業生が教員以外の進路に進む事態に立ち至り、発達科学部へと発展的に改組され、明治七年(1874)兵庫県師範伝習所に端を発する教育学部はその任務を終えたのでした。

現在、神戸大学は、一一〇にのぼる海外の大学や研究機関と学術協定を結び、そのうち三三大学とは全学学術交流協定を結ぶなど、海外に拠り所を設けた国際的な拠点大学を目指しています。一方、国内では、経営学研究科に専門大学院を、医学系研究科にバイオ・メディカル・サイエンス専攻を今年度スタート、さらには法科大学院の準備なども進められています。

行政改革の波は大学とても例外ではありません。神戸商船大学を神戸大学に統合しようとする動きもその一つと言えます。来るべき大学民営化を見据えた大学挙げての種々な取り組みもすでに始められています。

お問い合わせ先

文化スポーツ局中央図書館総務課