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最終更新日:2020年6月3日
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-神戸ふるさと文庫だより-
旧居留地38番館
関西学院大学教授を努めた兄ハワード。外交官で優れた歴史家だった弟ハーバート。ふたりは1920年代に、神戸のカネディアン・アカデミーを卒業した。
ハワードは戦後、母校の校長として学校再建の先頭に立った。大学を退いた後は、父ダニエル縁の地、信州で伝道の日々を送り、旧友E・ライシャワーと松方ハルとの結婚式を司式した。
ハーバートは、膨大な学問上の蓄積と日本の農民への限りない愛を支えに、農地改革など、戦後日本の民主化に大きな貢献をした。豊かな感性と学殖を謙虚で誠実な人柄に包み「典雅」と評された学風は、G・サンソムやE・H・カーに連なる。彼の評価は史学史や戦後政治史の一齣としてでなく、近代日本のインテレクチュアル・ヒストリーの文脈においてなされるべきであろう。
多くの日本人と美しい友情を育くみ、学業ばかりでなく、スポーツにもすぐれ...文学の方面で大きな期待がかけられた青年が、後年、マッカーシズムの嵐の中で迎える最期はあまりにも痛ましい。
黒部亨(神戸新聞総合出版センター)
平安時代末期、5ヶ月足らずで夢に終わった兵庫福原遷都。平清盛は、なぜ福原の地にこだわったのだろうか。兵庫開港まもなく起こった神戸事件。発砲事件の責任を問う外国公使側と日本側の折衝のなか、滝善三郎の切腹は免れようがなかったのか。また、姫路城を築いた池田輝政の一族は、後継のほとんどが若死するという、なんと数奇な運命をたどったことだろうか。
著者は、現存する資料に考察を加え、騒動が起こった背景、原因について、また、当事者や時代の為政者たちがどう対処したかについてなど、真実を求めてさまざまな謎を解き明かそうとしている。
橘川真一編著(日新信用金庫)
地名の由来を歴史や地形、伝承などから解き明かすのは、推理小説の謎解きに似た楽しみがあると、著者はいう。
本書では旧明石郡から東播までの65の地名が解説されている。神戸市内からは、伝説に由来する須磨の松風町、村雨町など25を紹介。舞子、名谷といった駅名などで耳慣れた地名にも意外な意味や歴史があることに興味がわいてくる。
水田裕子編著(神戸新聞総合出版センター)
トアロードは、旧居留地から北へ、神戸外国倶楽部までの約1キロ余りの坂道。もとは、居留地の仕事場へ向かう外国人達の通勤路であった。エキゾチックでハイカラなトアロードができて130年。お店の案内だけでなく、この通りの過去、現在、そして今後についてさまざまに盛りだくさんに紹介する。
服部祥子・山田富美雄編(名古屋大学出版会)
大規模災害の被災者への心のケアの必要性は、日本では雲仙普賢岳の火砕流災害や、奥尻島の地震津波災害の頃から本格的に言われ始めた。今回の阪神・淡路大震災でも、多くの医療関係者やボランティアがこの問題に取り組んでいる。
著者のグループは西宮市に拠点を置き、震災直後の2月から活動を開始する。ひとりひとりの子どもと関わるとともに、「自分を知ろうチェックリスト」などのアンケート調査を行い、被災当時から現在までの子どもたちの心の様子を観察し、分析している。この報告は今後、災害に出会った子どもたちに対する取り組みに活かされることになるだろう。
阪神大震災を記録しつづける会編(神戸新聞総合出版センター)
震災の年から毎年出されている記録の第5集。震災の重みを抱えている人、ボランティアからの声、被災地の外からの声などが収められている。街の様相は一見すると復興したかに見えるが、家族、健康、生活基盤などを失った人びとの本当の回復はたやすいことではない。被災者の生の声を記録するとともに、体験を「書く」ことで癒しをはかることも本書の目的である。
北野光良著(神戸市体育協会)
本書は、全国版の図鑑にはない「神戸における野鳥の姿」を伝えることを最大のテーマとした。神戸市で見られる野鳥285種をとりあげ、一種一種について、市内各地で撮影された写真や観察記録、見分け方、声、一般的な習性など、詳しく記している。観察の手引きやフィールドでの注意などは細やかで、これから鳥の観察を始めようという人には重宝な1冊である。
ウドノ葉宇子(文園社)
花隈の老舗料亭「松の家」は、著者の祖母しづが大正6年に開業した。戦災で全焼するが、2代目の母礼栄(のりえ)が再建し、東京や北海道に進出するほどに発展させた。著者は、3代目の女将として家業継承のかたわら、テレビ番組の制作に携わり、フリーライターとしても活躍している。
「細腕繁盛記」ともいえる本書を彩るのは、著者が眺めて育った古き良き花隈花柳界の情緒である。柳並木の灯りの下をゆくあでやかな芸者衆。もてなしに徹する母の厳しい姿勢。
阪神大震災で店は全壊したが、新たな場所で「松の家」は甦った。3代目から4代目にバトンが渡される日もそう遠くはない。
*「松の家」の[の]につきましては、フォントが無いため、ひらがな表記とさせていただきました。
池田昌夫(編集工房ノア)
著者は、英米文学の教授で詩人でもある。これは、昭和期の詩雑誌「詩と詩論」や「火の鳥」「イオム同盟」「荒地」といった詩雑誌を中心に昭和の現代詩について考察したもの。
「火の鳥」は神戸で創刊された雑誌。富田砕花や竹中郁から若い世代の新人までを会員とする雑誌であり、若き日の井上靖も参加している。昭和期の詩壇の状況を知る上で参考となる書。
(有馬温泉観光協会)
有馬温泉観光協会の50周年記念出版。いにしえから名湯として名を馳せた有馬の歴史、文化、自然、名勝を豊富な写真とともにまとめた。有馬は、阪神間からの足場の良さなどで人気を博してきた温泉だが、時代の流れと、震災の打撃を乗り越えるという大きな課題を抱えている。有馬の湯を愛した秀吉にまつわる故事と、明治期の有馬を愛した外国人たちの事蹟にもふれ興味深い。
辻本嘉明(郁朋社)
金子は、第1次大戦時の好景気に乗じ外国貿易などで莫大な利益をあげ、神戸の鈴木商店を当時の財閥系商社をもしのぐ存在に押し上げた。だが大正7年8月、米価高騰に怒る群衆によって鈴木商店本店は焼き討ちにあい、さらに昭和金融恐慌の嵐に巻き込まれて行く。
「政商」とも批判される鈴木商店だが、金子の願いはすべて「国益」であり、日本経済の発展であった。台湾での製糖など、未開発分野の産業に大胆に新会社を設立するといったベンチャー精神の成果は、現在の多くの大企業や企業家が鈴木商店を源としていることで証明されている。
阪神・淡路大震災では、旧居留地もまた多大な被害を受け、多くの貴重な歴史的建築物が姿を消しました。元のイメージを保った新しいビルになったものもいくつかありますが、全壊から見事に再現された建物もあります。それが旧居留地15番館です。
15番館の建物は、明治14年頃に建設された市内最古の西洋建築物で、一時はアメリカ領事館にも使われていました。建設当初の名称は不明で、平成元年重要文化財に指定された時の呼び名で表されています。当時の町並みの写真などをみれば、居留地はこの15番館と同じタイプの建物が並んでいたことがわかります。
この建築様式はコロニアル様式といい、本来は17から18世紀にイギリス、スペイン、オランダの植民地で用いられた様式です。イギリス古典主義様式を簡略化したもので、日本でも模倣され、木造でスタッコ(塗り壁)仕上げ、吹き抜けの柱廊とベランダを持つ形として明治初期の西洋館の多くがこの形式となりました。
居留地のコロニアル様式の町並みは、明治中期から徐々に変わり始めます。明治22年、A・N・ハンセルの来日とともに新しいヨーロッパの風が持ち込まれます。フランスに生まれた彼は、イギリスで建築の勉強をし、王立英国建築士会会員の資格を持っていました。彼の日本での30年に及ぶ活動からは、ハッサム邸やシュウエケ邸、華僑総会(いずれも現存)などの作品が生まれています。また彼は、居留地内で外国人商館や領事館、ホテルなどを設計しました。中でも傑作と称されるのが、明治23年、居留地の南東、レクリエーショングラウンド(現東遊園地)の南に建設された「神戸クラブ」です。この石と煉瓦の調和が美しい建物は、神戸の外国人の交流の場となっていましたが、昭和20年、戦災によって失われてしまいます。ハンセルは従来の居留地建築にとらわれず、煉瓦づくりや木造下見板張り(北野町の洋館にみられる、壁板を横に水平に長く張り合す手法)などの新手法を導入しました。
神戸クラブ
明治32年7月、居留地は返還されましたが、土地建物の永久借地権は既得権として残りました。大正中期から昭和初期にかけて、ようやく日本企業の進出が本格化し、日本人建築家たちによって高層、コンクリート造りのビル群が生まれ始めるのです。私たちが今、目にしている旧居留地の風景はこの時代以降のものです。