KOBEの本棚 第37号

最終更新日:2020年6月3日

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-神戸ふるさと文庫だより-

  • 第37号 平成12年12月20日
  • 編集・発行 神戸市立中央図書館

太山寺本堂からの眺め
(太山寺:本堂から三重の塔を望む)

山陽鉄道唱歌

「英名千古(えいめいせんこ)に曇りなき/楠公忠死の湊川/清くながるる神戸市は/全国屈指の大港」という歌をご存知でしょうか。これは明治四十二年に作られた「山陽線唱歌汽車」の一番の歌詞です。作詞者の大和田建樹(たつき)は、国文学者、歌人、詩人なのですが、教鞭を執るかたわら、多くの唱歌を作りました。有名な「鉄道唱歌」は明治三十三年一〇月、「汽笛一声新橋を」で始まる第一集の東海道編から第五集の関西・参宮・南海編までが発表されます。駅名だけでなく、地理、歴史、民話、伝説、名産品までも折り込んだ歌詞は、人びとの旅愁を誘い、大変な流行歌となりました。この後、全国各地の「鉄道唱歌」が生まれます。「山陽鉄道唱歌汽車」はその一つなのです。

山陽本線は明治二十一年に神戸から線路を延ばし始め、三十四年、下関まで到達します。「発車の時間待つ隙(ひま)に/めぐる附近の名所(などころ)は/生田諏訪山布引の/滝は駅より二十町」と口ずさみながら、車窓の風景を楽しんだ旅人も多かったのではないでしょうか。

新しく入った本

コレクティブハウジングただいま奮闘中

石東直子 コレクティブハウジング事業推進応援団(学芸出版社)

コレクティブハウジングただいま奮闘中震災によって多くの人々が住む家を失った。家だけでなく生きる希望を失い、不安だけが残ったお年寄りたちも多い。そんな中、居住者同士が助け合いながら共に暮らす公営コレクティブハウジング(=協同居住型集合住宅)が全国で初めて神戸に誕生した。

本書は、その提唱者であり、「応援団」として計画作りから完成後のサポートに至るまで、常に情熱的に関わってきた都市プランナーの奮闘記である。

栄光の残像

倉橋健一詩 細川和昭写真 足立裕司水先案内(澪標)

栄光の残像西日本各地に残る近代建築物、産業遺産他を写真と詩、解説文で紹介する。現在は舞子ホテルとなる旧日下部邸。柱を飾る木莵(みみずく)の彫刻は大正時代から磨かれ続けて光を帯びる。朝来郡神子畑(みこはた)の鉱山に残る技師宿舎。人のいない診察室に窓の光が差し込む。静謐さを湛えたモノクローム写真の数々が、建築物の輝いていた時代を偲ばせる。

翔け神戸-阪神・淡路大震災の定点撮影

大仁節子(友月書房)

大仁(だいに)さんは、東灘区在住で七十七歳。長年暮らした家は震災で全壊した。懐かしい家や付近の町並みが消えてしまうことを残念に思い、写真を撮り始めた。

写真は、中央区、灘区、東灘区の記録と、交通機関にまつわる記録、巻末には著者が発行したミニコミ新聞やこれまでの展覧会に関する新聞記事なども収められている。定点観測という手法によって、災害の大きさを改めて実感するとともに、風景の変る早さにも驚かされる。

思いやりを力に変えるために-阪神・淡路大震災で集まった「ボランティア一年生」のための講座

ユニベール財団編著(ブロンズ新社)

思いやりを力に変えるために-阪神・淡路大震災で集まった「ボランティア一年生」のための講座ユニベール財団は、国際的視野から高齢者福祉の推進を目的とする団体。震災時にはボランティア団体を組織し、仮説住宅の個別訪問など、被災者の心のケアを中心とした活動を行った。この経験から「ボランティア一年生」のために催された講演会の記録が本書である。

老人の医学、心理学、ボランティア活動の位置付けと具体的な手法、被災者の心の問題など、専門家による講演が九編収められている。ボランティア活動を目指す人のためだけでなく、高齢化社会における基礎知識として役立つ内容といえる。

ドキュメント崩壊からの出発-阪神大震災5年・「生活再建」への挑戦

渡辺実・小田桐誠(社会思想社)

震災から五年が経ったが、被災地の現場では、避難所運営、仮設住宅入居・コミュニティづくり、生活再建など、多様な問題が出現した。被災者、ボランティア、行政職員たちは、前例のないそれらの問題にどう取り組んだのか。柔軟かつ誠実で強靭な人々のルポルタージュは、貴重な災害時のマニュアル本ともなるべきものである。

彫 -だんじり彫刻の美-上地車彫刻画題考

(兵庫県地車研究会)

烈しい曳きまわしで有名な地車(だんじり)。その屋根、欄間、側面には、驚くほど多様な彫刻が施されている。本書は、兵庫県や大阪近辺の地車彫刻の写真を多数収録する。一台一台について彫師や大工の名前まで丹念に調査されている。頁を繰るごとに、平家物語や古事記、太平記などでお馴染みの場面が、どこかユーモラスな味わいで立ち現れ、眺めるだけでも楽しい。

風を待つ少年-東君平物語

東菜奈(集英社)

風を待つ少年-東君平物語東(ひがし)君平は、神戸で過ごした少年時代の思い出を、白と黒の絵を添えて風物詩風に書き綴った作品『くんぺい少年の四季』を残し、四十六才の若さで急逝した。本書は、絵本作家である娘が前著や親戚、関係者への聞き取りをもとに、父君平の青年期までを再現したものである。

医院を経営する裕福な東家は戦争を機に破産し、一家は離散する。君平も十二才で神戸を離れ、苛酷な生活を送ることになった。厳しい状況の中で彼を支え続けたものは、画家になるという夢だった。

ユーモアとペーソスをたたえた君平独特の絵が生まれた秘密が、ここに解き明かされている。

記憶の街-震災のあとに

佐々木美代子(みすず書房)

記憶の街-震災のあとに故郷神戸を離れ、長らく東京で暮らす著者は、大震災によって「半ば被災者、半ば目撃者」となる。東京から時には神戸から、その後の人々や街の様子を見つめ続ける。

また、自身も全壊した両親の家の再建、年老いた母の介護、死、そして親しい友人たちの身辺に起こる不幸に直面する。それらの体験や心の軌跡が静かに、しかし確かな記録として記される。

フレンズ-シックスティーン

高嶋哲夫(角川春樹事務所)

神戸を舞台に「社会の闇」に戦いを挑んだ高校生たちの物語。

高校生のユキ、光一、徹、冬樹、アキの五人は小学校五年以来の親友グループである。だが高校入学の前日、アキとユキの目前でユキの両親と妹が殺された。暴力団の抗争の巻き添えらしい。ショックのために言葉を失ったユキのために、調査を始めた彼らだったが、その目的は次第に復讐戦へと変貌してゆく。

神戸からの公園文化 兵庫の公園1868-2000

辰巳信哉(ブレーンセンター)

神戸からの公園文化 兵庫の公園1868-2000

著者は、三十年間、兵庫県の職員として公園づくりに携わってきた。その著者が、身近な公園を題材に、明治以来、人びとが集う「名所・旧跡」が公共の財産としての「公園」になっていく過程を描く。

開港直後につくられた日本初の公園、東遊園地。廃藩置県後、二転三転の運命をたどった明石公園。もっと小さな公園でさえ、時代とともにさまざまな機能を持たされてきた。ある時は食糧増産のための畑に、ある時は罹災した人々の仮の住まいになった。二十一世紀に、私たちが公園の「空地性」をどう利用するか、文化の質が問われている。

その他

  • 儀太郎のシルクロード-明治・大正期の絹織物輸出商・澤田儀太郎の生涯 小口悦子・田中玲子共著・刊
  • 韓国まんぷくスクラップ 浜井幸子(情報センター出版局)
  • 阪神大震災2000日の記録(阪神大震災を記録しつづける会)
  • 阪神・淡路大震災関連文献目録1995-2000(日外アソシエーツ)
  • そして、これからを生きて行く 阪神大震災を表現する神戸の会編著(鹿砦社)
  • 地域福祉と住まい・まちづくり-ケア付き住宅とコミュニティケア 上田耕蔵(学芸出版社)
  • 共同作業所ショップ・工房ガイド関西版 藤田綾子編著(創元社)
  • 古い小匣 平野昌二(文藝書房)
  • 安藤忠雄-淡路夢舞台-千年庭園への記録(新建築社)
  • 身辺図像学入門-大黒からヴィーナスまで 岡泰正(朝日新聞社)
  • あっ 涌嶋克己(解放出版社)
  • 十五歳の桃源郷 多田智満子(人文書院)

ランダム・ウォーク・イン・コウベ 37

太山寺

神戸市西区の学園都市の近く、昔ながらの風景の残る田園地帯に、天台宗の古いお寺太山寺はあります。寺のそばを伊川が流れ、周りには県の天然記念物に指定されている自然林が広がっています。本堂は、建造物では神戸市内唯一の国宝です。そのほか多数の重要文化財を有し、その数では県下一、二を誇ります。

寺に伝わる縁起によれば、藤原鎌足(かまたり)の子、定恵(じょうえ)が霊亀二年(七一六)に開山、孫の宇治(うまかい)が諸堂を建立したとありますが、古瓦や古い礎石の跡がなく、伽藍の配置からも平安時代末期にあたる十二世紀初頭に創建されたと考えられています。

寺が最も栄えたのは鎌倉時代から室町初期の頃でした。寺に伝わる文化財の多くが鎌倉・室町期のものであることもその反映と言えます。国宝の本堂は、鎌倉時代末期に建てられたものですが、これまで二度の大火にみまわれています。二度の罹災にもかかわらずまもなく再建されているのは寺に勢いのあったことのあらわれと言えます。

太山寺本堂
(太山寺本堂)

この時代、大きな寺院では多くの僧兵をかかえ、時として合戦に参加することもありました。寺院に求められたのは、戦勝祈願の祈祷と戦力でした。寺院にとっても、時の権力と結びついて、祈祷と戦功による恩賞としての所領を獲得しなければ寺を運営していけない現実がありました。

鎌倉時代末期の元弘二年(一三三二)二度の倒幕計画に失敗した後醍醐天皇は隠岐に流されます。翌年、元天台座主でもあったその子護良(もりよし)親王は、吉野から各地に倒幕の令旨(りょうじ)を発し、兵を募ります。令旨とは皇太子、皇后、親王などが発する文書のことです。この令旨は太山寺にも届き、さらにこれに続く追而書(おってがき)では、軍勢を率いて赤松城(苔縄城)に馳せ参じるよう具体的な指示が出されます。赤松城では赤松則村(法名は円心)がすでに挙兵しており、太山寺衆徒は、その指揮下に入ることになります。太山寺衆徒の軍忠状(ぐんちゅうじょう)によれば、赤松軍に加わった太山寺衆徒は、多くの死傷者を出しながらも、兵庫嶋の合戦を初めとして、尼崎の合戦、坂部村(尼崎市)の合戦、摩耶山の合戦と戦い、さらに、京都まで攻め上ります。

軍忠状は、戦いにおける戦功を書き上げ、軍事指揮者の証明を得た文書のことで、後日の恩賞の根拠となる重要なものです。これらの文書と、のち護良親王より送られる所領寄進の令旨は、「太山寺文書」の一部として今に伝わっています。この文書は太山寺が最も華々しい時期を迎えた頃の貴重な記録でもあります。この時の争乱が、元弘の乱と呼ばれるもので、これにより北条家一門は敗れ、鎌倉幕府は滅びます。

中世には、勢力のあったこの寺も、やがて時代とともにその力を失っていきます。隆盛期には多くの末寺をかかえ、寺内には、四十一もの支院や僧坊を数えましたが、現在は五つの支院を残すだけとなってしまいました。

長い歴史のなか、幾多の戦乱や時勢を乗り越えその法灯を守り続けてきた太山寺も今は、豊かな自然のなかで、何事もなかったように、悠然とたたずんでいます。そして、春は桜、夏は新緑、秋は紅葉と四季折々に、信仰の対象としてだけでなく、市民の安らぎの場として広く親しまれています。

お問い合わせ先

文化スポーツ局中央図書館総務課