KOBEの本棚 第46号

最終更新日:2023年7月27日

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-神戸ふるさと文庫だより-

  • 第46号 平成16年2月20日
  • 編集・発行 神戸市立中央図書館

内容

攝津名所圖會
『攝津名所圖會』巻之八 八部郡より

  • 「横溝正史」(エッセイ)
  • 新しく入った本
  • 書庫探訪
  • ランダム・ウォーク・イン・コウベ

横溝正史

横溝正史は明治三十五年、東川崎町に生まれました。当時の東川崎町は湊川、川崎造船所、山陽本線に四方を囲まれた工場地で、後に湊川新開地が開け、歓楽街となりました。

正史は臆病だけど好奇心旺盛な子どもで、こっそり芝居を見に行ったこともあります。東川崎尋常小学校に入学すると、友達の家にあったお伽話や立川文庫を片っ端から読み、空想好きな少年へと成長しました。

彼は次第に謎解きの面白さに魅かれますが、時代は探偵小説の空白期、海外作品の翻案がわずかにあるだけです。幸い、港が近い三宮の古本屋には珍しい外国雑誌がたくさんあったので、正史は親友と二人で、探偵小説らしきものを発掘して回りました。中学生の語学力では失敗することもありましたが、丹念にページをめくって見つける喜びは、すばらしいものでした。やがて彼は、それらを翻訳して雑誌に投稿し始めます。

正史は回想録の中で、「地方都市としては神戸がつねに、探偵趣味に富んでいる」と述べています。港があり、好奇心旺盛な神戸の街が、推理作家を生んだとも言えるでしょう。

新しく入った本

メリケン波止場

かどもとみのる(長征社)

メリケン波止場昭和三十四年、著者は十六歳で広島から神戸に出てきた。当時、神戸港の湾内では、はしけやタグボート、ランチなど、さまざまな小型船が活発に行き来しており、著者は、甲板員として働きはじめ、その後、港めぐり遊覧船の船長を長く務めた。

水上で生活する大勢の人たち。そのおかみさんたちの買い物や水汲みなど生活の大変さ。年始の午前零時、さまざまな船が鳴らす汽笛のシンフォニー。四月初め、六甲山麓で咲いた桜の花びらが川から海へ流れ、海面を桜色に染める美しさ等々。活気ある港の息遣いが感じられるエッセイ。

平家物語の旅-源平時代を歩く

志村有弘(勉誠出版)

平家物語の旅源平時代の史跡を訪ねる本。北海道岩内町の「弁慶の刀掛岩」から、福岡市の「聖福寺(源頼朝が開基)」まで、日本中の史跡が写真で紹介されている。

神戸市内では、中央区の生田の森、兵庫区の能福寺や清盛塚、須磨区の須磨寺などが取り上げられている。

源平の合戦に興味があって、史跡をたどってみたい人には格好の手引となる。

小説楠公三代記

須田京介(神戸新聞総合出版センター)

物語は、楠正成が足利尊氏を邸に迎え、歓談する場面から始まる。尊氏に共鳴しながらも後醍醐帝への義に生きる故に相対し、湊川の合戦で命を落とす正成。後に小楠公とよばれ、父同様、義に殉じた長男正行。跡を継いだ三男正儀は、南北朝合一をめざし先代とは異なる道を選ぶ。複雑な南北朝時代が、神戸に親しみある楠一族を通じて見えてくる。登場人物たちの、きりりとしたやりとりも楽しい。

マザー・オブ・マザーズ-社会事業家・城ノブの生涯

城一男著 城泰子編(文芸社)

マザー・オブ・マザーズ城ノブは、明治五年、現在の愛媛県に誕生した。松山女学校を卒業後、神戸で職業学校の教師となるが、キリスト教伝道の道に入る為に短期で去る。再び神戸の地を踏むのは、四十五年、神戸養老院の経営再建に懇望されてのことである。以後、神戸を第二の故郷として、大正五年に下山手に日本唯一の婦人救済施設「神戸婦人同情会」を創設する等、昭和二十四年に亡くなるまで、女性の地位向上と児童福祉のために奔走した。

本書は、長男一男氏により平成七年に刊行されたものの新装版。

近代の朝鮮と兵庫

兵庫朝鮮関係研究会編(明石書店)

近代の朝鮮と兵庫兵庫朝鮮関係研究会の二十周年を記念し、会員たちがまとめた文章をあつめて出版したもの。この会は、在日朝鮮人の歴史を調査研究し、記録としてのこすことを目的として発足した。兵庫県下における在日朝鮮人の足跡をたどり、そこから掘り起こした歴史的事実は、歴史を違う側面から見せてくれ、考えさせられる。

神戸のハイカラ建築-むかしの絵葉書から

石戸信也(神戸新聞総合出版センター)

赤レンガの洋館・神戸倶楽部の前には、客待ちの人力車と車夫がならんでいる。海岸通では、海ぞいの松並木と立ち並ぶ洋館の間を、マントの男性がそぞろ歩く。

明治から昭和初期、建築物を中心に集められた絵葉書は、往時の風景を見せて、私達をタイムスリップさせる。

光村印刷や楠正堂など絵葉書の発行所にも注目して読み解いているところが蒐集家ならでは。

完全参加と平等を-城が山に萌える視障者の群像

上山勝(学事出版)

兵庫県立盲学校の卒業生や先生たちの活躍を紹介する本。

フェスピック神戸大会の水泳で四種目の金メダルを取った人、バリアフリーの研究で東大助教授になった人、投稿歌が歌会始に入選した人など計八人の紹介がある。

本のタイトルは硬いが、内容は分かりやすく、だれが読んでも励まされる本となっている。

神戸カフェ物語-コーヒーをめぐる環境文化

神戸山手大学環境文化研究所編(神戸新聞総合出版センター)

神戸カフェ物語「にしむら珈琲」「スターバックス」と日頃、当然のように目にするカフェ。コーヒーの歴史と文化に、食文化は専門外の五人がアプローチする。

「神戸とコーヒーいまむかし」「神戸カフェ日記」「KOBE喫茶店学」の全三章中には「自動販売機の路上観察」「建築家によるカフェ素描」などユニークな項目も並んで興味深い。

ゆうへ-生きていてくれて、ありがとう。

たかいちづ(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

ゆうへ双子のしょうくんとゆうちゃんは、震災の時に一歳半、互いの名前が言えるようになったばかりだった。震災でしょうくんを亡くし「ショックが大きすぎて、悲しみ以外の神経がまひして」しまう母・ちづさん。だがゆうちゃんも、しょう君はいつ帰ってくるのか、お母さんはなぜ泣いているのか、不安で悲しい日々を送っていた。亡くした子を想い悲しみで心が塞がれ、兄弟を亡くした子の悲しみに気づくゆとりをなくしていた母。

九年を経た今、十歳になったゆうちゃんへの感謝とあふれる愛情を、そして、しょうくんへの変わらぬ想いを綴る。

その他の新刊

  • 阪神電鉄物語 岡田久雄(JTB)
  • 定年世代のコーヒー・ブレーク-リタイアまでの643日 中込治(神戸新聞総合出版センター)
  • コウベ・コーヒー・ガール 九鐘ナオミ(碧天舎)
  • 神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフクラブ100年史編集委員会編・発行
  • 一歩いっぽ-随筆集 続 井戸敏三(兵庫ジャーナル社)
  • 恐ひ薬 上山隆正(日本文学館)
  • 彩花がおしえてくれた幸福 山下京子(ポプラ社)

書庫探訪 その3

攝津名所圖會

寛政年間に刊行された難波、大坂から兵庫、須磨、有馬にいたる挿絵付きの紀行案内記で、全9巻12冊で構成されています。巻之七~九は寛政8年、巻之一~六は寛政10年の刊行。著者は秋里籬島、挿絵は竹原春朝斎ほか。現在の神戸市に関わる巻は、巻之七武庫郡・莵原郡(芦屋から東灘区・灘区・旧葺合区)、巻之八上・矢田部郡(須磨・長田区・兵庫区・旧生田区)、巻之九 有馬郡・能勢郡(六甲山の北)。

採録されている項目は、山川浜、村落、古城、神社仏閣や特産品の紹介にまで及んでいます。各事項に関する史実や物語、歌を広く古典籍や万葉集、勅撰集から引用し、ときには自身の歌も披露しています。挿絵も多く、当時の読者は居ながらにして旅を楽しむことができたことでしょう。

ランダム・ウォーク・イン・コウベ 46

多井畑

塩屋谷川の上流、鉄拐山の北に位置する多井畑は、多井畑厄除八幡宮(やくじんさん)で知られ、毎年一月の厄除大祭には夜を徹して多くの人々が参拝しています。この辺りは摂津と播磨の国境とされ、『摂津名所図会・巻八』には「太井畑(中略)これ摂播の界村なり。古は兵庫より夢野を経て山中へ入り、此田井畑を歴て播州へ出づる。これを古道越えという」と紹介されています。

ところで一説にはこの辺りに須磨の関があったと言われています。須磨の関は、例えば枕草子に「関は相坂。須磨の関....」などと登場し、実在したと考えられますが、いつ頃、どんな形で存在したのか、はっきりしたことは知られていません。一般には須磨の関守稲荷神社か現光寺裏付近が関跡ではないかとされています。では何故、多井畑が「須磨の関」と結びつくのでしょうか。

古代の関は、軍事・交通の要所に置かれていました。大宝令によると海上を取り締まる関として「摂津の関」があったようです。しかし当時の須磨は潮流も激しく、泊りもなかったはずであり、それを考えると「須磨の関」は海関ではなく、国境の出入りを司る陸関ではなかったかとの見方があります。また古代の関は交通の妨げになるという理由で廃止されており、延暦十四年(七九五年)逢坂の関も一旦なくなったので、それと近い時期には須磨の関も廃止されたと考えられています。

関があったと思われる頃、須磨の海岸付近は、鉢伏山が海に迫って絶壁をなし、通行が困難だったと想像されます。万葉集には「荒磯越す浪をかしこみ淡路島見ずか過ぎなむここだ近きを」という歌があります。これは「淡路島をこんなにも間近にしながら波がこわいので海沿いの道を離れ山道にはいる」という意味のようです。人々は海岸を避け、多井畑を経て塩屋へ出ていたと考えられています。須磨の海岸沿いに道ができた時期には諸説ありますが、『平家物語』の「田井の畑といふふる道をへて、一の谷の浪うちぎわへぞ出たりける。一の谷近く塩屋といふ所に...」という描写や、また最初に書いた『摂津名所図会』の「古道越え」という表現は、古代の山陽道が多井畑を経由するものであった可能性を感じさせます。

攝津國名所大繒圖
『攝津國名所大繒圖』天保七年(部分)

多井畑厄除八幡宮には「疫神塚」があり、ここは『続日本記』にでてくる、七七〇年の疫病の大流行を鎮めるため畿内十ヶ所の国境に祀られた疫神の跡、と神社では伝承しています。もしこれが確かであれば、多井畑は畿内十番目、摂播の境としての要所で、またここを播磨への道が通っていたことにもなります。こうした疫神祭は境界をつなぐ道上で行われたと考えられているからです。

このように考えてみると、摂播の出入り口であり、「国境」意識の高い多井畑に関があったのではないか、という仮説も成り立ちそうです。多井畑にある「セキスエ」という小字名も気になります。

ところで岩田孝三の『関址と藩界』に、古代の関には必ず男女神の祠があり、関跡が不明でも、祠は跡を留めていることが多いので、そこから関や国境を探すことができる、とあります。興味深いことに「やくじんさん」の近くには古い夫婦の明神の祠があり、『摂津名所図会』に「むかし此田井畑を開きし夫婦の小祠」と記されています。

しかし関の所在を明らかにできる史料はありません。果たして関はどの辺りにあったのでしょうか。古代の国境としての多井畑には大変興味をかきたてられます。

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文化スポーツ局中央図書館総務課