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最終更新日:2020年6月3日
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-神戸ふるさと文庫だより-
津名所図会 巻九
南蛮美術のコレクターとして知られる神戸の資産家池長孟(いけながはじめ・明治二十四年~昭和三十年)は、若い頃、牧野富太郎の植物標本を納めた植物研究所を神戸に作ろうとしたことがあった。
きっかけは大正五年の大阪朝日新聞の記事だった。東京帝大の講師牧野が窮乏のため、標本を海外に売らざるをえないという。標本の散逸を惜しんだ池長は、仲介者を通して援助を申し入れた。それは牧野の多額の借金を返済し、さらに植物研究所を作るというものであった。
話はまとまり、当時会下山(えげやま)にあった正元館(しょうげんかん)という建物に膨大な量の標本が運び込まれ、華々しく開所式も行われた。しかし、牧野の標本づくりは緻密なことで知られており、いっこうに進まず、植物研究所はついに一般に公開されることはなかった。
浮世絵などの日本美術の海外流出を無念に思って、のちに、南蛮美術の収集に情熱をかける池長のコレクターとしての片鱗がうかがえるエピソードである。
歴史資料ネットワーク編(神戸新聞総合出版センター)
歴史家たちは震災後、とり壊される前の家屋から、古文書を救出する活動を行った。さらに、市民と専門家が共に歴史や文化を考え、地域の再生へつなげていこうという試みで、神戸の歴史についての市民講座を開いた。本書はその講座の内容をまとめたもの。
平清盛が築こうとした兵庫の福原京は、奈良や京都の都とは異なり、「海に開かれた都」という点で、歴史的意味を持った都だった。こう述べた永井路子氏の講演をはじめ、示唆に富む内容である。
震災モニュメントマップ作成委員会・毎日新聞震災取材班編(葉文館出版)
現在、阪神間と明石、淡路島には、石碑や植樹、お地蔵様など、さまざまな形の震災モニュメントが百二十もあるという。これほどの数が作られなければならないほど震災が遺した傷痕は深い。それぞれの建立の経過からは、遺された人びとの、震災を記憶に留め、語り継いでゆく、という意思が伝わってくる。周辺案内の記載もある。
播磨学研究所編(神戸新聞総合出版センター)
播磨学研究所が設立され十余年がたった。地域史研究では、中央で編纂された史料から地方をとらえるのではなく、地方から歴史を解読する手法が盛んとなっている。本書は、同研究所が四年にわたり開催した特別講座の一部をまとめた講義録。播磨の旧石器時代から中世までを、遺跡の発掘にたずさわった第一線の研究者が現状を伝える。
神戸大学震災研究会編(神戸新聞総合出版センター)
これは、震災直後に地元神戸大学の有志研究者を中心に刊行された「阪神大震災研究」の第四集である。既刊三巻が、リアルタイムな報告であるのに対して、本書は、五年をひと区切りとした総括的なものである。
内容は神戸経済の再生、復興まちづくりの検証、心のケア、ボランティア活動の展開、次なる震災への備えと広範囲にわたっている。地域コミュニティを維持した「自力仮設住宅」への支援や、土地区画整理事業の限界を指摘した「減歩ゼロ」の自律的なまちづくりなど、市街地の復興についての具体的な提案がなされている。
(神戸市)
震災から五年が経った。仮設住宅がなくなり、街の更地も徐々に減り始めた。区画整理や大規模な住宅群の建設も進みつつある。震災一年後に出版された『阪神・淡路大震災神戸市の記録1995』に続く「神戸市復興計画」(平成七年六月策定)の中間報告である。五年間の経過と復興の成果から、今後の方向を探る道標である。
黒田展之・津金澤聰廣編著(世界思想社)
実際に震災を体験した大学教職員たちが、震災に関する研究成果をまとめた。地震発生時の行政の対応や、その危機管理について考察したもの、情報メディアについての研究など、視点はさまざまである。地域福祉のあり方については、行政だけでなく、民間企業が被災地域でどんな活動を行い、どのように貢献したか、住民はどう行動したのかを比較分析した研究は興味深い。
神戸新聞写真部編(神戸新聞総合出版センター)
神戸新聞社が創立百年を機に企画した「目で見る100年」の連載を加筆・修正、編集した。同社の創立は明治三十一年だが、日本に写真が入ってきた幕末・維新からの神戸、兵庫の貴重な写真を集めている。
こういった企画は政治や大事件中心になりがちだが、本書は、さまざまな職場で働く人たちの姿や、街中のふだんの暮らしといった、社会風俗を伝える写真が多くとりあげられている。人びとが生きてきた土地、風土、時代の変遷や空気を感じることができる。
和田典子(神戸新聞総合出版センター)
平成になって発見された紀行文的随筆「龍野まで」と自伝『我が歩める道』をもとに、露風文学の解明に挑んだ。露風は名士の家に生まれるが、家庭には恵まれず、幼くして母と別れなければならなかった。彼は、母の深い愛情に包まれていた時代の記憶と、思い出の地である龍野への思いを多くの詩に織り込み続けたという。
大山勝男(みずのわ出版)
シマンチュウとは、奄美地方の方言で「島の人」を意味する。著者の父は十七才で沖永良部島から神戸へ出て以来、六十年近くをペンキ職人として働き続け、震災の三ヶ月後、仕事中の転落事故で亡くなった。
本書は、鎮魂歌として父の生涯をたどったものだが、それは同時に、阪神間に生きてきた何万人ものシマンチュウたちの歴史の一端を物語ることになった。
神戸外国人居留地研究会編(ジュンク堂書店)
一八六八年の兵庫開港に伴い設置された神戸外国人居留地は、一八九九年に返還されたが、居留地を総合的にまとめた資料は少ない。居留地返還百周年に先立って一九九八年、ようやく「神戸居留地研究会」が発足した。これは、研究会が活動の一環として行った講座の講義をまとめたものである。
日本と神戸の近代化に大きな役割をになった居留地を、まちづくりや自治、スポーツ活動、条約改正と居留地返還など、多角的に再検証する。また、居留地の食事の再現といった、ユニークな試みもある。
阪神・淡路大震災では、神戸市内の多くの文化財が被害を受けました。有馬にある極楽寺も例外ではありませんでした。この寺には、「太閤秀吉が造らせた湯殿」の言い伝えがあったのですが、被害を受けた庫裏の修復時に湯殿が発見され、伝説が実証されました。
有馬温泉は「万葉集」や「枕草子」等多くの書物に登場するなど、昔から人びとによく知られていました。藤原道長、後白河院などの貴族や皇族、足利義満、織田信長などの武将、林羅山、貝原益軒などの文人、明治以降も福沢諭吉や谷崎潤一郎など、多くの著名人がここを訪れています。なかでも豊臣秀吉は、有馬の地をこよなく愛しました。「太閤記」など記録に残っているだけでも、十回ほど有馬に滞在しています。北政所もまた有馬をたびたび訪れており、有馬で湯治をする北政所を気遣う、秀吉の書状が残されています。
多くの人々が訪れた有馬温泉ですが、長い歴史のなかでは、何度も衰退と再興を繰り返して来ました。奈良時代には行基が、平安末期には僧仁西(にんさい)が、衰退した温泉を再興したと伝えられています。その後、一五二八年と一五七六年の二度の大火で、有馬は灰燼に帰してしてしまいます。それを、秀吉は大規模な修復をし、立派な別荘まで造営しました。また、千利休などを招いて茶会を催したことが「善福寺文書」等に記されており、有馬のサロン的な華やかさを伝えています。善福寺には、秀吉愛用の茶釜も伝わっています。
秀吉が有馬に御殿を建てた二年後の一五九六年、京や畿内は震度六の大地震に見舞われます。京では伏見城の天守閣が倒壊し、東寺や天竜寺などが大きな被害を受け、死者も千人を超えたことなどが、「言経卿記(ときつねきょうき)」に記されています。極楽寺に伝わる「有馬縁起」によると、有馬でも秀吉の御殿や家屋が倒壊し、多くの人が死に、また温泉が熱くなりすぎて入ることができなかったといいます。
翌年、秀吉はさっそく温泉の復興に取りかかり、泉源や浴場の修復だけでなく、河川の大規模な改修工事も行いました。その工事の途中、現在の極楽寺のところに新しい温泉が涌き出したのです。秀吉は喜び、ここに新しい湯殿を建設させ、さらに、民衆のための浴槽や湯屋を建てさせたといいます。
このように、秀吉は大地震からの復興に尽くしましたが、一五九八年、新しく涌いた温泉を楽しむことなく、帰らぬ人となりました。彼の死後しばらくして、この湯は涸れてしまったといいます。そのためか、この湯は「秀吉の夢の湯」と呼ばれたということです。秀吉が有馬を愛し、その発展に力をそそいだおかげで、文化文政期の「有馬千軒」の繁栄があり、それが今日へと続いているのです。
奇しくも今回の震災で、伝説の湯殿が発見されました。ここは現在、「太閤の湯殿館」として整備・公開され、太閤秀吉の夢のあとを偲ぶことができます。
有馬温泉の歴史については昭和十三年刊の、『有馬温泉史話』をはじめ、多くの研究がなされています。また、さまざまな記録から有馬に関するものを抜き出した労作、『有馬温泉史料』もあります。これらの資料を手がかりに、有馬の歴史をひも解いてみるのも一興かも知れません。