KOBEの本棚 第39号

最終更新日:2023年7月27日

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-神戸ふるさと文庫だより-

  • 第39号 平成14年1月10日
  • 編集・発行 神戸市立中央図書館

まやビューライン夢散歩
(まやビューライン夢散歩)

みかげ石

花崗岩は色彩が美しく耐久性も強いために、建築石材や石塔などによく使われます。そして花崗岩の別名を、みかげ石といいます。みかげ石という名称は、東灘区の御影(みかげ)という地名に由来しています。六甲山麓から切り出された良質の花崗岩が、御影の浜から、全国に大量に出荷されていたためです。出荷の最盛期は享保年間(西暦1716年~1736年)でした。このころ、尼崎藩領内だけで八十七隻の石船があり、そのうちの七十三隻までが御影村の所属だったといいます。

京都の三条大橋・五条大橋の旧橋脚(西暦1589年、天正17年)や、高野山の前田利家の墓(西暦1614年、慶長19年)も、御影から出荷された石で作られています。

御影という地名の起源には、さまざまな説があります。そのなかには、この地を訪れた神功皇后が御姿を泉(沢の井)に映したからというものもあります。みかげ石を見かけた方は、御影の泉に映された神功皇后の姿を思い浮かべてみるのもいいでしょう。

新しく入った本

本のタイトルをクリックしていただくと、詳細な書誌情報などがご覧いただけます。(神戸市図書館情報ネットワーク)

播州と山陽道

三浦俊明・馬田綾子編(吉川弘文館)

播州と山陽道日本全国を、街道をキーワードにして地域の歴史をまとめたシリーズの一冊。山陽道沿いの播州地域の主要な町の地理、歴史、風土、産業、文芸の分野を、項目ごとに専門の研究者が担当した。政治、経済の中心である畿内を控え、瀬戸内海の舟運と川に恵まれたこの地域が活気にあふれる時期があった。金物、醤油、そうめん、皮革、木綿、塩、鉄、銀などの豊富な資源と産業が人と物の往来を活発にし、その結果、今に残る多くの農村歌舞伎の舞台や私塾が生まれた。それらが物語る文化の興隆、それをもたらした社会の構造が、良く理解できる。

市民社会をつくる 震後KOBE発アクションプラン

震災復興市民検証研究会編著(市民社会推進機構)

神戸で活動する十五の市民団体を紹介し、地域のまちづくり活動において浮かび上がってきた問題を踏み込んで検証、さらに、今後の活動方針を提唱する。震災後、人びとが助け合い、共同して動くことの重要性が従前以上に認知されるようになった。市民団体を援助すべき行政にとっても、多くの示唆を含む。

希望の灯りともして・・・阪神淡路大震災67人の記者が綴る158のきずな

震災モニュメントマップ作成委員会・毎日新聞震災取材班編著(どりむ社)

希望の灯りともして・・・亡くなった方々の鎮魂や、震災を語り伝えるため、被災地には数多くのモニュメントがある。その一つ一つのモニュメントを訪ね、写真を撮り、そこに込められたメッセージを紹介する。震災から七年。人の記憶の風化はとどめようがない。が、これらモニュメントの存在が、人の輪を広げ、絆をつないでいる。

ひと萌ゆる 知られざる近代兵庫の先覚者たち

神戸新聞生活文化部編(神戸新聞総合出版センター)

本書では、明治以降に兵庫県を舞台に活躍した五十四人を「政治・社会運動」「教育」など八つの分野に分けて紹介する。賀川豊彦は生協を始めたことで知られているが、那須善治が賀川に触発され、一ヶ月後に灘購買組合を設立、今日にまで至る日本最大の組織の基礎を築いたことを知る人は少ない。女権運動家の冨井於菟や障害児教育の三田谷敬など、さまざまな分野で近代日本をリードしていた人たちがいた。本人が語ったこと、子孫や関係者の証言、研究者の評価などを引用し、彼らが生きた時代とその活躍を描きだしている。

神戸の市電と街並み

神戸鉄道大好き会編著(トンボ出版)

神戸の市電と街並み西暦1910年4月5日(明治43年4月5日)、神戸に初めて市電が走った。以来、西暦1971年3月(昭和46年3月)の全線廃止の日まで六十一年間、神戸の町を走り続ける。市電の歴史をたどっていると、神戸の街のうつりかわりが見えてくる。市電の写真集であり、神戸の街並み写真集でもあるこの本を眺めていると、もう一度、神戸の街を走る市電を見てみたくなってくる。

ごはん万歳

「ごはん万歳」編集委員会編(神戸新聞総合出版センター)

ごはん万歳毎日の食卓に並ぶごはんについて、その歴史や文化はもとより、食料自給、ダイエット法、兵庫県の郷土料理の紹介など、多角的にアプローチされた本。震災時、近隣の農村のJAから何十万個ものおむすびが供給された。都市近郊の農村の存在と、ごはんをコンパクトに持ち運ぶ「おむすび文化」の存在が、震災時に威力を発揮したという指摘が興味深い。

画集

約四十年間にわたりふるさと神戸を描いた画集が二冊出版された。

三原康男画集 水彩画で描くふるさと神戸

三原康男

三原康男画集三原さんの画集には1960年代から、震災を経て復興する現在の神戸の町並みが百三十一点収録されている。和紙に墨描きし着色する手法から生まれる微妙なにじみが、温かさ感じさせる。

兵庫運河スケッチ画集

藤崎實(友月書房)

兵庫運河スケッチ画集藤崎さんの風景画の題材は、子どもの頃から親しんだ兵庫運河と周辺の町並み。画集には運河に浮かぶ大量の木材やいかだ、運河ぞいの工場、町屋など三十四点を収録する。細く鋭い黒インクの線とやわらかな水彩が独特の風情を醸し出している。

放課後泥棒 子どもは群れて育つんや

森末哲朗(雲母書房)

放課後泥棒著者は「どんぐりクラブ」(六甲学童保育所)の指導員を二十年近く続けていて、「子どもは一人では育たない、群れの中で育つ」というのが信念。子どもたちは、目に見えない「明日」のために、塾や習い事に追われる生活を送っているが、そのために、放課後の自由で軽やかな時間・空間が、失われているのではないか。本書では、この問題を真正面から提起する。

六甲山 ハイキングのメッカ、近代登山発祥の地

(山と渓谷社)

六甲山古来、市民に愛されてきた山、六甲山を多方面から扱った雑誌。関西の岳人たちが綴る登山コース案内は、読み手を山に誘う。六甲山小学校長、六甲で育った登山家の話も興味深いが、とりわけ芦屋ロックガーデンを開拓した父・藤木九三を回想する藤木高嶺氏の文には味わいがある。登山史の記事は貴重な写真を集め、読み応えがある。茶屋の紹介、山岳会一覧、コース地図など、情報も満載である。

森のなかの海 上下

宮本輝(光文社)

希美子は阪神大震災をきっかけに夫の裏切りを知る。そんな時、彼女はある女性から奥飛騨の「森のなかの家」を譲りうける。離婚した彼女は、二人の息子、震災で身寄りを失った三姉妹、突然現れた七人の理由ありの女の子たちとの奇妙な同居生活を始めることとなる。森の神秘の木々がそれぞれの傷ついた心を癒していく。「森のなかの家」で暮らすうち、元の持ち主であった老婦人の隠された過去が次第に明らかになってくる。阪神大震災によって絶たれた絆と新たに結ばれた絆。人の縁の不思議を思う小説。

その他

  • 灘百選―灘の魅力再発見(灘区役所市民部まちづくり推進課)
  • 神戸と聖書 神戸阪神間の450年の歩み(神戸新聞総合出版センター)
  • インナーシティのコミュニティ形成 神戸市真野住民のまちづくり 今野裕昭(東信堂)
  • 大地に夢求めて ブラジル移民と平生釟三郎の軌跡 小川守正・上村多恵子(神戸新聞総合出版センター)
  • 日本華僑における伝統の再編とエスニシティ 祭祀と芸能を中心に 王維(風響社)
  • コープこうべ 愛と協同を深めて 1991年~2000年 震災をはさんで(生活協同組合コープこうべ)
  • 世界橋紀行 世界の橋見てある記 横山次郎(友月書房)
  • 昭和二十一年八月の絵日記 山中和子(トランスビュー)
  • 神戸西へ東へ 妹尾豊孝写真(マリア書房)
  • 貴志康一 よみがえる夭折の天才 日下徳一(音楽之友社)
  • 歌集水辺のナルシス 岩石志津子(ながらみ書房)
  • 水嵐 たかとう匡子(思潮社)

ランダムウォークインコウベ 39

摩耶山の足、ケーブル再開

市内最古の道標
市内最古の道標 西暦1682年(天和2年)灘区福住公園内

平成13年3月17日、摩耶山のケーブルとロープウエイが「まやビューライン夢散歩」として運行を再開しました。阪神大震災で被害を受け、休止して以来、六年二ヶ月後の再開となりました。再開を熱望してきた市民の声が、ようやく形となって実現したのです。

摩耶ケーブルは、西暦1925年1月(大正14年1月)、生駒、箱根、東信貴に次ぎ、日本では四番目のケーブルとして開業しました。麓の高尾駅(ケーブル下)から上の摩耶駅(海抜450m)までの約九百mを約五分で登ります。最大勾配が二十九度に近い場所もあり、安全装置は、スイス製で最新式、世界で二番目のものを採用したというのですから、当時の関係者の熱意を窺い知ることができます。

ケーブルは、摩耶山天上寺への参詣者の交通手段でした。摩耶山天上寺と呼ばれているこの寺の正式名称は「仏母摩耶山とう利天上寺」といい、西暦646年(大化2年)、インドの法道仙人によって開山されました。西暦806年(大同6年)、弘法大師が中国から摩耶夫人像を持ち帰り、婦人堂に納めます。「仏母」とあるとおり、お釈迦様の母である摩耶夫人が祭られていることから、女性の信仰を集めてきました。また新西国第二十二番札所、攝津八十八ヶ所第八十番札所など、巡礼の寺としても有名ですし、中世には修験道の中心地でもありました。その証拠として、摩耶山一帯に、天狗岩、行者道などの地名が残されています。

創建以来、雷火や地震で幾度か被害を受け、再建されてきた天上寺ですが、西暦1976年1月(昭和51年1月)、放火によって七堂伽藍が全焼してしまいます。深夜の山腹に燃え上がる炎は、三宮の街からも見えたということです。現在の寺は摩耶山頂の北側にありますが、元々はケーブル山頂駅を少し下った場所に建立されていました。ケーブルの西側にある「上野道」や「青谷道」という登山道を歩いた方なら、山門や石作りの長い階段、ぽっかりと開けた境内跡からの眺望のすばらしさはご存知でしょう。参詣の人びとは、この境内からの眺めも大きな楽しみとしてきたのではないでしょうか。

ここには古来多くの俳人が訪れており、正岡子規、河東碧梧桐や飯田蛇笏などが詠んだ句が知られています。現在の境内には、与謝蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」など、多くの句碑が建てられています。

六甲山一帯の観光開発が進むにつれ、レジャー客も増えてきました。駅を中心にして公園や売店、ホテルなども建設されます。市民の重要な交通手段となったケーブルですが、大震災以前にも二度の休業がありました。まず、西暦1938年(昭和13年)の阪神大水害では、線路流失などの被害を受けます。次の長い休眠は、戦争下での遊休施設の軍需転用のためでした。西暦1944年2月(昭和19年2月)に営業停止になり、金属回収のために、線路などが撤去されてしまいます。結局、資材の供出は行なわれないまま終戦を迎えましたが、再開にこぎつけることができたのは11年を経た、西暦1955年5月(昭和30年5月)でした。ケーブルに続き、同年7月、奥摩耶ロープウエイが運行を開始します。ロープウエイは開通翌月の一ヶ月間で十八万人もの利用があったというのですから、たいへんな賑わいだったようです。

六甲山や摩耶山は市民の身近な登山やハイキングの山として永く親しまれてきました。運転再開初日の新聞の見出しにも「広がる運動 復興願う心 実った署名」とあるとおり、きっと市民は、このケーブル再開を神戸復興のシンボルととらえていたのでしょう。

追記

先の第38号、ランダム・ウオーク・イン・コウベ欄で紹介しました「王敬祥文書」について。

神戸市立中央図書館では、王敬祥の御令孫王伯林氏より当館にご寄贈いただきましたマイクロフィルムから紙焼きし、冊子の形態で提供しております。文書は、兵庫県立歴史博物館が所蔵しております。

お問い合わせ先

文化スポーツ局中央図書館総務課